登場人物
時野 龍牙 23歳
新人の労働基準監督官。角宇乃労働基準監督署・第一方面所属。老若男女、誰とでも話すのが得意。
加平 蒼佑 30歳
6年目の労働基準監督官。第一方面所属。時野の直属の先輩。あだ名は「冷徹王子」。同期の麗花と何かあるっぽい。
紙地 嵩史 43歳
20年目の労働基準監督官。第一方面主任。時野と加平の直属の上司。加平の過激な言動に心労が絶えない管理職。
有働 伊織 37歳
15年目の労働基準監督官。第三方面主任。労働基準監督官史上最もイケメン。バツイチ。部下の夏沢にほの字。
夏沢 百萌 28歳
7年目の労働基準監督官。第三方面所属。人からの好意にも悪意にも疎い。年上の後輩の加平が苦手だったが気になる存在に。
高光 漣 45歳
22年目の労働基準監督官。安全衛生課長。おしゃべり好き。意外と常識人。美人の先輩を追いかけて監督官に。妻は関西出身。
本編:第5話「道交法違反」
§1
時野の中の加平は、いつもクールで動じない。
だが、白い百合のようなその女性を目の前にした時の加平は、時野が初めて見る加平だった。
『麗花……』
若月からの目撃情報を元に南区のラブホテルに行ったあの日、時野と加平は麗花に遭遇した。
ラブホテルの裏手は隣の敷地の駐車場に面しており、その広大な敷地は入院病棟のある大きな精神病院だったのだ。
病棟の周りには広い庭園があり、患者たちが散歩できるようになっていたが、その庭園の端に車椅子を押す男性と麗花の姿が見えた。
『加平くん、どうして……?』
加平に気づくと、麗花は驚いた様子で加平の方に駆け寄った。
聞けば車椅子に座っている女性は麗花の母親で、この病院に入院中なのだという。
『父が死んでからずっと、体調を崩したり持ち直したり、重いときは入院したりを繰り返してるの』
『……アイツは?』
車椅子を押す男性を見ながら加平が尋ねた。
『ああ、あの人は、母の会社の経営を見てくれているコンサルタントの柏倉さん』
『……』
(それだけじゃない雰囲気なんですけど? 加平さん、麗花さんとの関係とかもっと突っ込んで聞いた方が……)
『麗花さん。そろそろ、お母さんをお部屋に』
柏倉は麗花のそばに来ると、麗花の肩を抱くようにして連れていってしまった。
帰りの車の中で、時野は思いきって麗花との関係を加平に尋ねた。
『……同期』
それが加平の答えだった。
(加平さん……。ただの同期なら、なんであんなにせつない顔したんですか――)
時野が思い返しながら隣の席の加平を見ていると、加平が気づいて顔をしかめた。
「なんだよ?」
「あ、えっと……」
なんと答えようか迷っていると、紙地一主任が加平を呼んだ。
「加平、ちょっといいか。時野くんも」
2人は一主任に連れられて会議室に移動した。
(別室で話さないといけないこと……?)
「実はな。業務課長から指摘があったから確認なんだけど……。2人が乗った日の官用車のカーナビの履歴のこと。もしかして、業務中にラブホテル行った? 南区の」
「!」
時野は全身が硬直した。顔面にも出てしまっていたらしい。
「あ、やっぱ心当たりあるんだな?」
時野は動揺で身体が熱くなるのを感じた。
「そっか……。うん、ちょっと驚いたけど、俺は、2人が恋仲でも受け入れるよ。恋愛は自由だからな」
(あわわわわ……誤解です、一主任!)
「けどな、業務中に官用車でそういう場所に行って逢引きというのは……上司としては見過ごすわけにはいかない」
(いや、ダイナミックに違います!)
隣の加平を見ると、微妙な顔をしている。どこまで話すべきか、迷っているようだ。
「一主任、違うんです! 実は……」
「待て時野。俺が」
時野は加平に向かってぶんぶんと首を振った。
「加平さん、なるべく詳細を話さないつもりですね? ダメです、全部話さないと、この盛大な誤解は解けませんっ!」
「……っ」
加平はしぶしぶ諦めたようだ。
時野は、若月に麗花の目撃情報を聞いたところから、順を追って紙地一主任に説明した。
「麗花って……OBの黒瀬さんの娘さんの?」
「……はい。自分の同期です」
「なるほど。休業中の同期のことが気になって、目撃された場所に行ってみたんだな?」
「時野は俺に付き合わされただけです。業務中に行くべきではありませんでした。申し訳ありません」
頭を下げる加平を見て、紙地一主任は大きくため息をついた。
「わかった。業務課長にはうまく説明しとくよ」
時野はほっとした。一主任には隠し事をしたくない。
「でもさあ加平。そんなに心配だなんて、黒瀬さんて本当にただの同期?」
「……」
加平は視線を落としたまま、答えない。
(やっぱり、なんかあるんだ……)
「わかった、無理に聞かないけどさ。そうだ、だったら基準部長に黒瀬さんのこと聞いてみたらどうだ?」
加平が顔を上げた。
「黒瀬さんの件は基準部長預かりになってるって、聞いたことあるよ。明後日研修で局に行くだろ? 黒瀬さん個人の事情までは教えてもらえないかもしれないけど、病気休業なのか介護休暇なのか、休業の種類ぐらいなら聞いてもいいんじゃないか」
基準部長とは、正確には労働基準部長のことで、労働局の監督課、健康安全課、労災補償課、賃金室などを束ねる労働基準部のトップだ。
(基準部長預かり……。麗花さんは一体何をしたんだろう?)
*
労働局の各部署が行う業務研修は、年に3回程度、職員を労働局に集めて行われる。
今回の業務研修は、三主任以下の若手監督官が出席することになっており、所用で先に出発した者を除き、時野、加平、夏沢、有働三主任の4人で労働局に向かうことになった。
電車で行くためにJR角宇乃駅前に着いた時、駅前のロータリーの降車場に乗用車が1台停車し、運転席と助手席から男性が1人ずつ降りるのが見えた。
運転席の男は助手席の男を駅まで送ってきたらしく、助手席の男が駅構内に入っていくのを見届けると、車に乗ろうとしてこちらに振り向いた。
(あっ、あの人は!)
「寺林さん……」
「!」
寺林は、夏沢がいることに気づくと、少しためらった様子だったがこちらに近づいてきた。
加平が前に出て、寺林に立ちはだかろうとしたが――。
「待って、加平。大丈夫だから」
夏沢はそう言うと、自らも寺林に近づいた。
向かい合う夏沢と寺林、それをハラハラしながら見守る有働三主任と時野。加平も腕を組んで2人の様子を見ている。
「社長を説得して、退職金は全額支払うことにしたよ」
「……そう」
夏沢は、寺林から目をそらしたままだ。
「夏沢さんに謝りたかった。騙すようなことして……本当にごめん」
「……」
「だけど、俺……夏沢さんと違う形で出会えていたらって、何度も考えて……。信じてもらえないかもしれないけど、俺は夏沢さんのこと本当に……」
夏沢が寺林を見る。しばし見つめ合うと、今度は寺林が目をそらした。
「……いや、こんなこと言っても、ただの自己満足だよな。ほんとごめん」
そう言うと、寺林はぎゅっと目をつぶった。
「殴って、俺のこと」
「え?」
「それぐらいじゃ罪滅ぼしには到底足りないけど、せめて1発殴ってほしい」
「……わかった。じゃ、歯くいしばって」
(えぇっ! ほんとに殴る?)
寺林はぎゅっと口元を結んだ。
「!」
夏沢は背伸びをすると、寺林の首に腕を巻き付けるようにして抱きついた。
(えぇぇ! しかも、駅前のこんな人通りの多い場所でなかなかに熱烈な抱きつき方なんですけど。もしかして夏沢さん、まだ寺林さんのこと……)
何秒経っただろうか。やっと夏沢は寺林から離れた。
夏沢は、抱き合う2人を見ていたたくさんのギャラリーに目をやった。
「あー、結構見られちゃったな。この中に、婚約者の社長令嬢さんのお知り合いがいなければいいけど」
「……?」
「……それ。婚約者さんに見つからないといいね」
夏沢は、寺林の首筋を指さした。
「え?」
よく見ると、うっすらとだが、寺林の首筋に跡がついている。
(あっ! まさか、さっき抱きついた時に夏沢さんがつけた?)
寺林はしばらくきょとんとしていたが、やがて無邪気な笑顔を見せた。
「あはははは。そういう仕返しってこと? 夏沢さんには敵わないな」
寺林が去ると、夏沢がこちらに戻ってきた。
「お待たせしました! 行きましょー」
なんだかスッキリした顔の夏沢がずんずんと駅構内に入っていく。
「ちょっと、三主任! ちゃんと歩いてくださいって!」
ショックで倒れそうな有働三主任を、時野と加平が両脇から抱えて連れて行くはめになったのだった……。
(それにしても……寺林さんといた男の人は、確かあの時も……)
§2
労働基準監督官の最初の配属先は労働基準監督署と決まっており、そこで2年間経験を積んだところで、一旦県外にある他局管内の労働基準監督署へ転勤することになっている。
そのタイミングで本人が希望すれば、本省で勤務できる場合もある。
本省――つまり、霞が関にある厚生労働省だ。
他局勤務や本省勤務のあとは元の労働局に戻ることになるが、一部の者はそのまま本省に残り、地方局勤務よりも早まる出世の過程で、労働局の幹部の席に座ることがある。
ここK労働局の基準部長である香坂も、その1人だ。
「個人情報だ。言えるわけないだろう」
香坂基準部長は、ばっさりと切り捨てた。
時野と加平は、労働局での研修終了後、黒瀬麗花の話を聞くために基準部長室に来ていた。
『基準部長には俺から電話を入れておくよ! 実は香坂とは同期なんだ』
紙地一主任はそう言って、連絡してくれたようなのだが……。
(一主任、話が違いますー!)
「……そうだ。君、時野くん、だったよな?」
「あ、はい、時野龍牙と申します」
香坂基準部長は、時野をじっと見つめた。
「なんか想像と違うな」
(はい?)
「監督官試験をトップの成績で合格。国家公務員の総合職も高成績で合格して厚生労働省で内定が出ていたが、それを蹴って監督官になった……それが君の前情報だが」
「えーと……そう、ですね……」
「処理不能になりかけた申告を解決したって、紙地も褒めていたが」
「それはまあ……たまたまです」
時野の歯切れが悪いので、香坂基準部長は訝しげに時野を見ていたが――。
「いいだろう。私の課題を解決したら、黒瀬さんのことを特別に教えてやってもいい。どこの署の誰にやらせようか迷っていたところだ」
(この言い方、嫌な予感しかしない……。個人情報だからダメと言っておいて、課題を解決したからって本当に麗花さんの事情を教えてくれるのだろうか? これは断った方がいいんじゃ……)
加平の方をみると、香坂基準部長に向かって身を乗り出していた。
(加平さん、引き受ける気満々かーい!)
香坂基準部長がニヤリとしているのを見て、時野はため息をついた。
*
香坂基準部長の紹介でやってきた梶川夫妻は、疲れ切った様子だった。
梶川はトラックの運転手をしているそうだが、仕事中に事故を起こし、そのことで困ったことになっているのだという。
(奥さんは基準部長の親戚らしい。仕事中の出来事ってことで、労働局勤務である基準部長へ藁にもすがる思いで相談したというところか)
梶川が相談票に記載した事業場の概要は次のとおりだ。
- 事業場名:岩井酒店
- 所在地:角宇乃市東区〇〇町〇〇-〇
- 業種:酒類販売業
- 労働者数:15名
(職種は配達とのことだが……)
「2週間ほど前のことですが、私が運転中のトラックからボックスが取れて落ち、後方を走っていた車に激突したんです。幸い怪我人はいませんでしたが、警察からは過積載で検挙され、その上後方の車の修理代の請求が来て……」
「ボックスというのは?」
「トラックの後部に取り付けた箱で、仕事道具を入れていました。荷台の方には最大積載量ギリギリまで積んでいたので、ボックスの荷の重量分が過積載と判断されてしまいました」
「過積載の方は点数も反則金も大したことはなくて、仕方ないと思うしかないのですが……問題は、後方の車の修理代なんです」
「いくら請求されているのですか?」
「200万円です」
「200万!?」
時野は思わず叫んでしまい、口をおさえた。
(その修理代で軽自動車が買えそう)
「たまたま高級車だったんです。それで修理代も高額に……。社長に泣きつきましたが、『ギリギリまで荷台に積んだのが悪い』とか『ボックスがとれかかっていたのに気づかなかったお前が悪い』といった調子で……」
加平は、腕を組んで黙っている。
「仕事中の事故なんです。会社で払うよう監督署から社長に言ってもらえませんか?」
妻の方がしびれを切らしたように訴えた。
「200万なんて大金、とても私たちには用意できません。ただでさえ、この事故のために夫はしばらく仕事をさせてもらえなくて、当分の間はろくに給料も出ないのに……」
(気の毒だけど、仕事中とはいえ労働者の過失による損害賠償請求が労働者自身にきても、どこにも労働基準法違反がない。つまり、労働基準監督官には指導できない)
うなだれる梶川を見れば何とかしてやりたいのはやまやまだが、状況としてはかなり厳しい。
(基準部長は、うちではどうにもできない事案だとわかっていたはずだ。親戚だけに直接言うのはためらわれて、引導を渡す役割を誰かにやらせたかったんだ……)
時野は加平を見た。
(結果的に課題を解決できないわけだから、僕たちに麗花さんの情報を教えなくて済む)
香坂基準部長の悪巧みの笑顔が思い浮かぶ。
(ぐぬぬぬ、悪党めー!)
「……残念ながら、今回の場合、事業場に支払義務があるとは言えませんし、監督署から指導することはできません」
加平が淡々と説明する。
「そんな……」
梶川夫妻は今にも泣き出しそうだ。
「ただ……ご希望でしたら、再度話し合いの場を持つよう『助言』することならできますが」
助言とは、労働者と事業主の間の法律違反ではない争いについて、専門の相談員から事業主に連絡をとり、紛争の問題点を指摘したり解決の方向を示したりして、自主的な解決を促す制度だ。
法違反に対して労働基準監督官が行う指導と違って、あくまで話し合いによる解決を勧めるもので、強制力はない。
梶川夫妻はがっかりした様子であったが、今の状況で労働基準監督署ができることといったら、現実的に言って助言しかない。
助言の申し込みをすると、梶川夫妻は足取り重く帰っていった。
「正直言って、助言したからって、ここまで断ってた社長が200万もの金を肩代わりするとは思えねえな……」
加平は腕を組んでため息をついている。
(加平さん、基準部長からの挑戦を諦めかけてる。基準部長からすれば、個人的な面倒事を押しつけた上に、麗花さんの情報を知りたい僕たちを追っ払えるから一石二鳥だ。でも……)
「……いや、加平さん、もうちょっと粘りましょう」
「は? 粘るったって……」
「それに、確かめたいことがあるんです」
「?」
その時、事務室に入ってきた男性の姿を見て、渡辺相談員が声を上げた。
「柏倉先生じゃないですか! どうしたんです?」
(えっ、柏倉? それって、もしかして……)
時野が声がする方を見るより早く、加平は柏倉の姿をとらえていた。
「渡辺先生、ご無沙汰してます。加平さんて方、いらっしゃいますか」
「ああ、加平さんなら……」
渡辺相談員が言い終わる前に、加平は柏倉の前に立った。
「表に出ろ」
加平は柏倉を伴って庁舎の外に出ていった。
(あわわわ、これはヤバい! 麗花さんを巡って一触即発)
「なにあれ、揉めごと? ねえ、揉めごと?」
高光課長だ。こんなおもしろそうなことを見逃すわけがない。
「えっとですね……。っていうか、大変だ、追いかけなきゃ」
外に出ると、加平と柏倉が向かい合って立っているのが見えた。
(よかった、暴力沙汰にはなってないみたいだ)
時野と高光課長は身を隠しながら、トーテムポールのようになって加平たちの様子をうかがった。
「角宇乃署勤務だと麗花さんからきいたので、ここに来ればお会いできるかと思って」
「なんの用だ」
加平は敵意剥き出しの視線を柏倉に向けている。
「麗花さんのことは、そっとしておいてほしいんです」
「は?」
「彼女は今、お父さんの過去やお母さんの体調不良と向き合うだけで精一杯なんです。同期だと聞きましたが、あなたじゃ麗花さんの苦悩に寄り添えない」
加平は身体がぶつかるほどに柏倉に近づくと、凍てつく眼差しで睨みつけた。
(これは……過去イチの冷徹視線だ)
「あんたなら麗花に寄り添えるっていうのか」
「ええ。境遇の近い私なら。それに、私とは連絡を取り合って、あなたからの連絡は無視している。それが麗花さんの答えだということがわかりませんか?」
「……っ!」
(境遇?)
柏倉は余裕の笑みを浮かべると、じゃあ、と言って帰っていった。
加平はうつむいて立ち尽くしている。
(加平さん……)
加平が振り返って庁舎の入り口方向に歩きだしたので、トーテムポールは崩れながら庁舎内に駆け込んだ。
事務室に戻ると、渡辺相談員が心配そうな顔で窓口に立っていた。
「あ、時野さん戻ってきた。加平さんと柏倉先生、ただならぬ雰囲気でしたけど、なにかあるんですか?」
「えーと、それはちょっと個人的なことで……」
勝手に加平のことを話すわけにもいかず、時野は話をにごした。
「渡辺さんこそ、柏倉さんとお知り合いなんですか?」
「ああ、同業者ですよ。社労士仲間。『元』って言った方がいいかもしれませんね」
相談員は社会保険労務士の資格をもつ者が多く、開業して事務所を構えたり、社会保険労務士事務所に勤務したりして、相談員と兼業していることも少なくない。
「元?」
「柏倉労務管理事務所で勤務されていたんです。大先生が柏倉先生の叔母さまで。でも、数年前に独立して、今は経営コンサルタント事務所を開業されてますけど」
(元社労士の経営コンサルタントか……)
§3
「時野、よくツテがあったな」
加平が官用車を降りながらそう言うと、目の前の建物を見上げた。
「僕にツテなんかあるわけないじゃないですか。ツテがありそうな人に頼んだんです」
時野も、角宇乃労働基準監督署よりも数段立派なその建物を見上げた。
「誰が警察にツテあんだよ。一主任か?」
そう、ここは角宇乃警察署だ。
「いえ。頼るなら、僕たちにこの課題を持ってきた人が適任でしょ?」
「えっ。基準部長を使ったのかよ」
時野はあきれ顔の加平にニコッと笑いかけた。
時野は香坂基準部長に連絡を入れ、角宇乃警察署にアポイントをとってもらったのだ。
香坂基準部長は気が進まない様子だったが、渋々、角宇乃警察署長に連絡を取ってくれた。
(さすが基準部長。K労働局管内の様々なお偉いさんと名刺交換している)
角宇乃警察署の受付で用件を伝えると、大柄の男性警察官が出てきた。
「あんたらか、警察の仕事にケチつけようっていうのは」
(ちょっとー! ちゃんと伝えてくれたのかな、基準部長)
「ケチだなんて滅相もないです! 当署でご相談を受けている事案の事故車両がこちらで保管されているときいたので、参考までに見せていただきたいと……」
時野と加平は、梶川が事故発生時に運転していたトラックを見にきたのだ。
李崎というらしいその男性警察官に案内されて警察署の裏手に回ると、小型のトラックが停められていた。
トラックの後方に回ると、50センチメートル四方の錆びた金属製の箱が地面に置いてあった。
「これですかね? 梶川さんが言っていたボックスというのは」
「そうみたいだな」
ボックスの四方のうち一辺は、金属が不均一に切断された断面となっている。
時野がトラックの荷台を見ると、後方の真ん中あたりにボックスがくっついていたらしい断面が確認できた。
「ここにボックスがひっついていて、走行中に、落ちた……」
時野は不均一にもこもこと盛り上がっている断面を指でなぞった。
「このボックスはどうやって荷台につけたんでしょうね」
「アーク溶接じゃないか。手軽だからな」
(アーク溶接……)
時野は、労働安全衛生法の業務資料を頭に思い浮かべた。
労働安全衛生法とは、労働者が安全で健康的に働くことを目的として、事業主に課されたルールを定めた法律だ。
「血で書かれた法律」とも呼ばれており、そのほとんどが実際に起こった労働災害をきっかけとして、その再発防止のための禁止事項を定めた条文だ。
(溶接についての規定は、アーク溶接かガス溶接のものだったな。確か……)
「このボックスがアーク溶接でつけられたとして、誰がつけたんでしょうか」
「誰って……。は……? まさか……」
時野は説得の糸口になるかもしれないことを思いついた。加平もその内容がわかったようだ。
「李崎さん!」
仁王立ちでぼんやり立っていた李崎は、突然呼びかけられて驚いている。
「わっ! なんだよ?」
「このトラック、いつまでここで保管するんですか?」
「それなら、明後日持ち主に引き渡すことになってるよ」
「持ち主っていうと?」
「だから、岩井酒店の事業主だよ」
「その時、僕たちも同席させてください!」
「はあ?」
訳が分からないという顔の李崎を尻目に、時野は加平の方をみてうなづいた。
*
角宇乃警察署の受付は、混雑していた。
「岩井酒店の岩井と申します。今日は事故車両の引き取りで伺いました」
岩井は65歳。中学を出て酒屋に就職し、35歳で独立して自分の店を構えたが、経営は決して順風満帆とは言えなかった。
気軽に酒が買えるコンビニの台頭で、経営が苦しい時期もあったが、個人客より店舗への販売に重点を置くよう事業をシフトし、きめの細かい対応で地域の飲食店からの信用を得て、安定した注文を受けられるようになった。
独立して30周年を迎えた矢先、今回の事故は起こった。
(梶川が事故を起こしたせいで、まったく面倒な目に遭った。その上、損害賠償金の200万円を肩代わりしろだと? 倉庫に大型冷蔵庫を新設した費用のローンもあるのに、200万円なんて払ってやれるか)
岩井の長男の明は、3年前から事業を手伝ってくれるようになった。なんとしても、息子の代でも安定した事業であってほしい。
(こんなことで、水を差されてたまるか)
大柄の警察官に案内されて警察署の裏手に来ると、そこには岩井酒店のトラックが停められており、そばに2人の男が立っていた。
「岩井酒店の事業主の岩井さんですね?」
男たちは時野と加平と名乗ったが、渡された名刺を見て岩井は驚いた。
「労働基準監督署……?」
(昨日電話がかかってきたばっかりだ。「助言」とか言っていたな。梶川の事故の損害金を一部払ってやったらとか、もう一度話し合ったらどうだとか……。もちろん、断ったが)
「岩井さん、梶川さんの事故の損害賠償金のことですが」
時野が口を開いた。
「それでしたら、昨日も監督署の方から電話がかかってきて、払えないと回答しましたが……」
「なぜ払えないのですか」
(は? 何を言っているんだ、この若造は)
「なぜって……事故を起こしたのは梶川でしょう。出発前に車両の点検をするのは運転者の義務だ。ボックスの点検をしなかった梶川の責任ですよ。大体過積載だって、いつも口を酸っぱくして注意しているのに、あいつは無理やりギリギリまで積んだんですから」
「ボックスがとれてしまったことですが……我々は、あなたに責任があるとみています」
(なんだと?)
時野は荷台後方の不均一な溶接跡を指さした。
「これ、アーク溶接ですよね? 溶接をしたのはどなたですか」
「それは……」
「この溶接跡、はっきり言って下手くそです。通常は、こんなに不均一にもこもこ盛り上がっていない。もっと均一的です」
(こいつは何が言いたいんだ?)
「資格をもたない素人が行った溶接跡です。梶川さんから聞きました。ボックスをアーク溶接で取り付けたのは、息子さんですね?」
「!」
(アーク溶接の資格……?)
「労働安全衛生法第59条、労働安全衛生規則第36条。アーク溶接をするには特別教育を受けていないといけません。特別教育は、講習機関で受けるのが通常ですが、息子さんは受けていないですよね?」
岩井は、1年前のことを思い出していた。
トラックの荷台に商品をめいっぱい積みたいのに、道具類を積んでいる場所がデッドスペースとなっていることを聞いた明は、建設業の同級生からアーク溶接機を借りてきて、ハンドメイドでボックスを取り付けたのだ。
『これで荷台を100パーセント商品のために使えるよ!』
明はそう笑顔で岩井に報告したのだが……
(借りる当日、同級生から簡単に使い方を教えてもらったらしいが、まさか資格が必要だったなんて……)
「し、資格が必要だったんですか、それは申し訳ありませんでした。ただ、今回の事故で点検を怠ったのは梶川でしょう! うちに責任はない!」
岩井は時野を睨み付けた。
「……じゃあ送検するか、時野」
「!」
加平と名乗った背の高い男の発言に、岩井は耳を疑った。
(送検、だと……?)
「点検うんぬんじゃなくて、そもそも無資格の奴がアーク溶接で取り付けたことによる強度不足が落下の原因だって言ってんだよ!」
「強度不足……?」
「確かに、労働基準監督署にはあんたに損害賠償額を払わせる権限はない。あくまで民事不介入だからな」
加平がゆっくりと岩井に近づいてくる。
「だけどな。てめえの責任を置いといて、労働者に一方的に責任を負わせようっていうなら、こっちにも考えがあるって言ってんだよ」
加平は岩井の目の前に立って凍てつく視線で岩井を見下ろした。
「あくまで岩井酒店には損害賠償責任がないってんなら、無資格でアーク溶接をさせた労働安全衛生法違反は、きっちり償ってもらうからな!」
岩井は加平に腕をつかまれ、顔面蒼白だ。
「もちろん送検されたことは新聞にも載るから覚悟しろ! 損害賠償にも無関係じゃないだろうぜ。原因が無資格で溶接したことにあると知ったら、高級車の持ち主はどうするだろうな?」
(送検……新聞に載る……損害賠償……)
岩井は今にも崩れ落ちそうになっている。
「か、加平さん! もうそれぐらいで……」
時野が慌てて止めに入る。
岩井は、時野が「大丈夫ですか」と尋ねる声が、もはやほとんど耳に入ってこなかった……。
*
「アーク溶接の資格かー。安全ナントカ法っての? 俺らじゃそこまで気ぃつかなかったなー」
岩井はトラックを引き取って帰っていった。その背中は、来た時よりも小さく見えた。
(あの様子なら、前向きに梶川さんと話し合ってくれるだろう)
時野たちは李崎に誘われて、角宇乃警察署内のリフレッシュコーナーに来ていた。
リフレッシュコーナーには飲み物や軽食の自動販売機が設置されており、簡単なイスとテーブルも置かれている。
3人はそれぞれ飲み物を買って、近くのイスに腰かけた。
「確かに、言われてみりゃあのでこぼこの溶接跡はひでーけどよ。そこから無資格で溶接したとまで頭が回ったのはすげーよ」
李崎はぶどうジュースのペットボトルを開けると、ごくごくと飲んだ。
「それに、加平さんもだよ。あんたのあの凄み方、ただの公務員じゃもったいないね。警察の方が向いてるんじゃないか?」
「……凄むぐらいしか切り札がなかったからな」
「は?」
李崎はきょとんとしている。
「だって、岩井が損害賠償金を払わないってんなら、無資格でアーク溶接させた罪で送検するんじゃなかったのかよ」
「それが……実際のところは、送検するのは難しいんです。ですから、さっきのは半分はったりで……」
時野が頭をかきながら苦笑いをした。
「はったり?!」
李崎は驚いてペットボトルを落としそうになっている。
(確かに、無資格の素人がアーク溶接で雑に取り付けたことが今回の事故の原因だってことは、間違いないと思ってるけど……)
一昨日、角宇乃警察署から帰庁した時野たちは、梶川に連絡をとって、アーク溶接でボックスを取り付けたのが岩井の息子だと確認した。
それから2人は手分けをしてK県内の講習機関に片っ端から電話をかけ、岩井の息子がアーク溶接の特別教育を受けた実績があるか確認した。
(岩井明が特別教育を受けた実績は確認できなかった。だけど……)
労働安全衛生規則第36条には、特別教育を受けるべき危険又は有害な業務が列挙されており、確かにその中にアーク溶接も含まれている。
ただし、労働安全衛生規則第37条には、「十分な知識及び技能を有していると認められる労働者については特別教育を省略することができる」とも定められているのだ。
「つまり、送検するなら岩井明がアーク溶接について『十分な知識及び技能』を有していないことも立証しないといけないんです。そのためには、過去の勤務先のすべてに業務歴や教育歴の照会をかける必要がありまして。それに、県外の講習機関で特別教育を受けた可能性も否定はできませんし」
一主任にも相談したのだが、特別教育の無資格就労での送検は、できないことはないが困難を極めるという。
K県内及び近隣県の講習機関へ正式に文書で照会することはもちろん、過去の勤務先への照会も必要だ。
そこまでしても、労働安全衛生法第37条の存在のために、担当検事が送検にGOサインを出してくれないこともあるという。
未照会の都道府県で受講したり経験を積んだりした可能性が、排除できないからだろう。
なんとか送検にこぎつけても、罰金をとるどころかよくて起訴猶予らしい。
それでも起訴猶予なら、罪があると検察に判断されたのだからまだいい。
下手をしたら嫌疑不十分……つまり、罪とまでは判断できないという結果になることもあるようだ。
「おそらく特別教育なんて受けたことがないだろうと踏んでいたんですが、確証はない。だから、カマをかけて脅すしかありませんでした!」
時野が明るく元気に言うので、李崎はあきれている。
「脅すって……労基も意外とやり方があこぎだな」
(確かに、今回は負けられない戦いだったから、ちょっと強引だったことは否めない……)
§4
19時近くになっても、労働局には煌々と明かりが点いていた。
定時まで勤務してから来いと香坂基準部長から言われていたので、こんな時間になってしまったのだ。
半分ぐらいの労働局職員が残業をしており、当然基準部長室にも明かりが点いていた。
「梶川からお礼の電話があった」
基準部長室には簡単な応接セットが置かれている。
先日は立ち話だったが、今日の時野と加平はソファに座って基準部長の話を聞くことになった。
「結局、梶川が50万、事業主が150万で話し合いがついたようだな。安衛法違反があったんなら、私としては全額事業主負担でもいいと思うが、梶川は人がいいから」
香坂基準部長は、ふっとため息をついた。
「それにしても……本当にこの課題をクリアするとはな。せいぜい『助言』ぐらいしか打つ手がないと思っていたが」
(気がついてるじゃん! やっぱり、僕たちに梶川夫妻を諦めさせる役割を押し付けるつもりだったんだ)
時野は香坂基準部長に恨みめいた視線を向けた。
「事業主の安衛法違反を暴きだすとは驚いたよ。しかも、それをネタに脅かすとはね。誰のアイディアだ?」
「無資格就労に気がついたのは時野です。脅しの実行は自分が」
香坂基準部長はくすりと笑った。
「脅しって……仮にも国家公務員が、そんな物騒なことよそでは言うなよ。それにしても、やっぱり、時野くんか。頭が切れるというのは紙地の誇張じゃなかったようだ」
「……あの、そろそろ教えていただけませんか。黒瀬麗花さんのこと」
「……」
待ちきれず時野が尋ねると、ここまで饒舌だった香坂基準部長が急に口を閉じた。
「まさか、やっぱり個人情報だから教えられないなんておっしゃるつもりじゃ……」
「約束は守るよ。黒瀬さんにも既に了解をとってる」
「え……麗花に……?」
香坂基準部長が麗花に連絡を取ったときいて、加平に動揺が見えた。
「驚くところじゃないだろ。黒瀬さんの個人的な事情を、本人の了解なく他人に言えるわけがない。黒瀬さんは驚いていたよ。加平くんが私にまで話を聞きにきたこと」
「……」
「そこまで心配をかけて申し訳ない、どうぞお話しください、とのことだった」
(麗花さん……)
「先に聞くけど、2人は黒瀬さんとどういう関係?」
「あ、僕は無関係です」
「は? 無関係?」
時野の答えに、香坂基準部長はがくっとなった。
「ひょんなことから麗花さんと面識がありますが、ただの顔見知りです。でも乗りかかった船といいますか、おふたりの力になりたいと思ってます」
「おふたりというのは、黒瀬さんと加平くんのこと?」
香坂基準部長は加平を横目で見たが、加平は視線を落としたまま沈黙している。
「なるほど、特別な関係なのは加平くんの方のようだね。それなら後で依頼したいことがある。まずは約束通り、黒瀬さんのことを話そう」
(依頼? またなんかやらせようとしてるし!)
「黒瀬さんは、ある事件を起こして謹慎中だ」
「謹慎?!」
「謹慎といっても、内密なものだ。私の判断で処分保留にしている。OBの黒瀬さんのお嬢さんだし、できる限り穏便に事を運びたい」
「麗花は、一体何をしたんですか?」
「不法侵入だよ」
(不法侵入……?!)
*
時野は、先日若月と一緒に飲んだ、労働局の近くの居酒屋に来ていた。もちろん加平も一緒だ。
香坂基準部長との話を終えて労働局を出ると、加平が飲みに行こうと言い出したのだ。
(まさか加平さんに飲みに誘ってもらえるとは思わなかった! それだけ基準部長の話がショックだったのかな……)
正面に座る加平は、黙って生ビールを飲んでいる。
(麗花さんが不法侵入。下手したらがっつり犯罪だ。一体なぜ?)
時野は、香坂基準部長の話を思い出していた。
『黒瀬さんは、元佐賀巳職安に無断で忍び込んだ。それも夜間に』
職安とは、「公共職業安定所」の略だ。
現在は「ハローワーク」という呼び名の方が一般的だが、一定年齢以上の人は今でも職安と呼ぶことが多い。
元佐賀巳職安とは、K県北部の佐賀巳市にあるハローワークのことだが、数年前に他のハローワークに合併されたために現在では庁舎が残っているだけで、各署所の書庫に収まりきらない書類の仮置き場となっているのだという。
時々は書類の入れ替えのために職員が立ち入ることがあるが、その際は労働局の総務課で警備の解除キーと入り口の鍵を借りることになる。
しかし麗花は、総務課の職員の目を盗んで、警備の解除キーと入り口の鍵を無断で持ち出したのだという。
『警備記録の確認中、夜間に警備が解除されていることを不審に思い、総務課が防犯カメラの映像を確認したところ、黒瀬さんの姿が映っていた。監督官だということで、内密に私のところに話がきたんだ』
(同じ労働局の職員と言っても、労働基準監督官は法律上独立した立場の職員だ。総務課では扱いかねて、監督部門を束ねる基準部長に委ねたということか)
『黒瀬さんを呼び出して尋ねたら、元佐賀巳職安に侵入したことはあっさり認めたよ。総務課から無断で鍵を持ち出したこともね。だが、理由についてはいくら聞いても絶対に言わなかった』
(夜間に無断で立ち入ったということは、職務以外の目的に違いないけど、元佐賀巳職安にあるのは古い行政の書類ぐらいで金目のものはないらしい。その上、特に持ち出されたものはなかったとか……)
『彼女がなぜこんなことをしたのかわからなくて、処分を決めかねている。そこで加平くんに依頼したい。黒瀬さんから侵入の理由を聞き出してくれないか――』
時野は考えながらひたすらお通しの枝豆を食べていたのだが、気が付いたら2人分の枝豆を食べ切っていた。
(あ、しまった。つい加平さんの分まで――)
「時野」
「はい! すみません……枝豆追加で注文しますか?」
「枝豆?」
加平は枝豆の殻の山を見ると、ふっと表情を緩めた。
「はは、いいよ、それは。それより腹減ってんだろ。好きなもの注文しろ」
(あ。お酒が入って加平さんが甘めになってる)
時野がいくつか料理を注文すると、加平が再び口を開いた。
「時野、お前はもうこの件から降りろ」
「えっ?」
「麗花には、俺1人で話をきいてくる」
時野は、思いつめた様子の加平を見ていたが――。
「でも……麗花さんは加平さんからの連絡を無視してるのに、どうやって聞き出すつもりですか」
「!」
加平は驚いた様子だったが、やがて、はあーと大きなため息をついた。
「柏倉との話、聞いてたのかよ。盗み聞きとは趣味わりーな」
「あの時は、殴り合いの喧嘩でも始まるんじゃないかと心配で……すみません」
時野は上目遣いで加平の表情を確認したが、どうやら怒ってはいないようだ。
(今ならこの質問にも答えてくれるかな)
「あの、加平さん……。本当は、麗花さんとはただの同期ではありませんよね?」
加平はごくごくと生ビールを飲むと、口元を手で拭った。
「つきあってる」
(やっぱり!)
「……と、俺の方は思ってる」
(俺の方は?)
「2回プロポーズしたけど1.5回断られた」
(プロポーズ2回! てゆーか、端数の0.5って?)
「俺と一緒にいる時も、麗花は何か考え込むことが多くなって……距離を置きたいって言われた。そっからは、俺からの電話に出なくなったし、メッセージを送っても既読スルー」
加平はアルコールが入って少し赤くなった頬に手を当てて、頬杖をついている。
「柏倉が言ったとおりなのかもな……。俺は麗花の母親が入院していることすら知らなかったのに、アイツは母親の乗った車いすを押していた……」
今の憂いを帯びた表情は、普段の眼光鋭い加平からは想像がつかないものだ。
(こんな表情の加平さんは初めてだ。なんだか色気すら……若月さんには絶対見せられないな……っていやいや、そういうことじゃなくて!)
時野はぶんぶんと頭を振って、思考を切り替えた。
「僕は降りません」
「え?」
「麗花さんは、僕たちに事情を話していいと基準部長に言ったんですよね? それはある意味、麗花さんからのSOSではないでしょうか」
時野は握りこぶしを作ると頭上に伸ばした。
「今こそ、麗花さんの問題を解決するために必要とされています! 微力ながら、僕もお手伝いします!」
§5
カタカタ……と、タイピングの音がした。
男は入力を終えたメール本文の内容を確認すると、文末に「Rより」と添えて送信ボタンをクリックした。
(労働基準監督署も、労働基準監督官も、もっともっと困ればいい)
男の背後に、別の男が立った。前髪は長め、両サイドを刈り上げた髪型がよく似合うイケメンだ。
「大丈夫、なんですよね……? あなたに話したこと」
座っていた男は立ち上がると、背後の男を抱きしめた。
「不安な気持ちにさせたならすまなかった。何も心配いらないよ」
(高階家具の社長も酒屋のおやじも、せっかくいい方法を指南してやったのに、ひよって労働者の言いなりになるとは。腰抜けどもめ。まあいい、次は解けるかな……?)
ー次話に続くー
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