本編:第1話「労働大学校・前期研修」
〈前編〉
§1
埼玉県、朝霞市――。
朝霞駅へは、池袋駅から電車で約20分。都心へのアクセスが良く、通勤・通学に便利なことからベッドタウンのイメージもある朝霞市は、陸上自衛隊の朝霞駐屯地があることでも有名だ。
朝霞駅からバスに乗ること約10分。
かつては『税務大学校前』という名称であったバス停で降りるとすぐの場所に、『労働大学校』はある。
隣接する税務大学校が10年ほど前にお隣の和光市に移転した時のこと。
バス停の名称は『労働大学校前』に変わると思いきや、『南大通り(朝霞警察署前)』となってしまった。
マイナー過ぎて、『労働大学校前』では利用者にわかりづらいと判断されたのか……。
役所の上下関係、はたまた知名度のカーストが見えるようで、なんとも物悲しい。
国民からマイナーのレッテルを貼られた労働大学校では現在、労働基準行政の明日を担う新人の労働基準監督官たちが集まり、研修に勤しんでいる。
そんな労働大学校の構内に、秘密を抱えた者がいるとも知らずに……。
*
[設問15]
遠方の取引先と約束した時間に間に合わせるために早朝出発した時間は、労働時間か。出発時刻は朝5時、取引先との約束は10時とする。
「出張の移動時間は使用者の指揮監督下にないから、労働時間じゃないんじゃない?」
「取引先に行くなら、自社の商品かなんか持ってってるかもよ。『物品の監視や運搬を目的とした出張の場合は移動時間も業務だ』って、コンメンタールのどっかになかったっけー?」
「設問にはそこまで書いてなくない? 深読みしすぎじゃね?」
「敢えて人数とか書いてないけど、上司と一緒に取引先に行ったのかも! そうなると、部下の方は上司の指揮監督下にいることになるよね? 隣に上司がいたら、例え移動時間でも労働時間じゃない?」
「1人だとしても、5時間もかけて移動してるのに、労働時間じゃなかったらひどすぎでしょ。そんなブラックな会社、絶対辞める!」
同期たちが口々にしゃべるのを、時野龍牙はメモを取りながら聞いていた。
現在、ここ、労働大学校では、新任労働基準監督官研修――通称『新監研修』が行われている。
新監研修は、5月から6月にかけて行われる前期研修と、9月から10月にかけて行われる後期研修がある。
講義形式、グループ討議、実技演習といったカリキュラムを労働大学校に集合して行い、前・後期研修の前後の期間は、各自が配属署において先輩たちについて実地訓練を行う。
時野たち新人労働基準監督官が前期研修のために労働大学校に集合して、1週間が経過した。
ただし、前期研修の最初の2週間は、各自の配属署からzoomで接続して行うオンライン研修があったので、前期研修が始まってからという意味では、3週間経過したことになる。
(今日で集合研修は折り返し。残り1週間で署に戻ることになる)
全国から研修生が集合する労働大学校での研修は、泊まり込みで行われる。日中は研修棟で学び、寝泊まりするのは隣接する宿泊棟だ。
労働大学校の近隣局の者は自宅から通勤することも可能なのだが、泊まり込みで行うことで研修に集中できるのはもちろん、寝起きを共にした研修生とはやはり仲が深まるもので、全国に人脈ができるという利点もある。
(研修の内容は署に戻ったら秒で忘れるけど、同期のつながりは未来永劫続く……。研修に行く前に一主任から言われたっけ)
確かに時野も、日を追うごとに親しく話せる同期が増えた。
というのも、労働大学校に来てからというもの、『班の懇親会』『関東ブロック飲み会』『〇〇県出身者会』『同い年飲み会』などと、何らかの共通点でくくったメンバーでの飲み会が連日行われているのだ。
断る理由もないので、時野は全ての飲み会に参加し、順調に同期との交流を深めていったのである。
中でも、同じ班のメンバーは、日中も行動を共にすることが多く、最も交流を深めた間柄と言えるだろう。
現に今も、班ごとに分かれてグループ討議で設問の解答をまとめるという演習をしているところだ。
例年100名以上はいるという新監だが、時野の同期は例年より少なく、60名。6人ずつで10班が編成され、時野が所属しているのは2班だ。
班員は男女3名ずつで、男はS局の伍堂快人とW局の倉橋蓮哉、女はH局の安川茜、M局の尾形小春、I局の上城乃愛だ。
「オーケー、一旦まとめようか。使用者の指揮監督下になく単に移動するだけなら、出張のため現地に向かっている時間は労働時間ではない。だけど、使用者が同行して移動中も指揮監督下の労働があったり、自社商品を取引先に届ける目的がある場合だと、労働時間となり得る。こんな感じかな?」
とりまとめたのは、伍堂だ。
伍堂は明るい性格でしゃべりもうまい。2班の中心であるのはもちろん、あっという間に同期のリーダー的な存在となった。
伍堂は25歳で、新卒の同期たちより年上であることも理由の一つだろう。
労働基準監督官の採用試験は29歳になる年まで受験することができるので、同期は新卒ばかりではない。割合としては、新卒と既卒で概ね半々だ。
もちろん伍堂より年上の同期もいるが、それでも25歳の伍堂が同期の中心的な立ち位置にいるのは、持ち前のリーダーシップや育ちの良さからくる『陽』の空気感があるからだろう。
「時野も、いいか?」
伍堂が時野に目配せしたので、時野は頷いた。
時野は今回のグループ討議で書記を担当しているので、討議結果の記録が追い付いているのか、伍堂が確認をしてくれたのだ。
(こういう気配りもちゃんとできる奴だから、人気者なんだよな)
「じゃあ、次いこうか。次の設問は――」
時野は、設問を読み上げる伍堂の精悍な横顔を見つめた。
(こういうところだけ見ると、いいヤツなんだけど……)
§2
「59期の初めての集まりを祝して、乾杯!」
かんぱーい! と唱和したのは、新監60名と、准教授を含む労働大学校の関係者、そして本省の監督課からやってきた労働基準監督官の先輩だ。
集合研修の中日である今日、金曜日の夜に、宿泊棟の1階にある食堂を貸し切って懇親会が開かれているのである。
59期――というのは、時野たち今年の新人労働基準監督官のことだ。
入省年次毎に『○期』と呼ばれ、労働基準監督官は横のつながりが強いと言われている。
『監督官人生でピンチになった時、助けてくれるのは同期なんだよな。だから、全員と連絡先の交換をしてくるんだよ、時野くん。特に女の子はもれなくね。その中に将来の伴侶がいるかもしれないんだから!』
研修の送り出しで、高光課長から熱弁されたことを、時野は思い出していた。
監督官の中には、同期と交際したり結婚したりしている人も少なくない。
同じ年代の大人数の男女が一堂に集まり、一定期間共に活動するので、毎年新監同士でカップルが成立するらしい。
(新監研修で仲良くなってつき合うことを『朝霞マジック』と言うとか。あれ? てことは、加平さんも朝霞マジックだ)
時野がビール用の小ぶりのグラスを口に運びながら見回すと、本省から参加している先輩たちが目に入った。
(監督課の監察官、監督係長、係員の3人か……。あの人とはあまり絡みがなさそうなメンツだけど、念のため近づかないでおこう)
時野がそーっと本省の3人から遠ざかろうとしたその時、誰かの腕がドカッと肩にのしかかってきた。
「時野! ちょっとこっちこいよ。2班の交流を深めようぜ」
腕の主を見ると、伍堂だ。有無を言わせず、肩を組んだまま時野を連れて行く。
体格に恵まれている伍堂にがっちり肩を組まれると、背も高くなくやせ型の時野には抗うすべもなく、引きずられるように拉致された。
「おーい、時野も連れてきたぜ。今日はグループ討議おつかれ! 乾杯!」
6人でグラスを合わせると、伍堂と倉橋はぐいっと一気にグラスを空けた。2人ともかなりアルコール好きなのだ。
ビール瓶を手にした上城乃愛が、2人のグラスにビールを注いだ。
「時野くんは?」
「ああ、ありがとう」
時野もビールを飲み干すと、乃愛がグラスにビールを注いでくれた。
「ねえ。時野くんて、監督官試験の成績が1位だったって本当?」
「えっ。うーんと、どうだったかな」
話をはぐらかすと、乃愛が答えを求めるように顔を覗き込んできたので、時野はドキリとした。
乃愛は、ミステリアスな雰囲気の美人だ。
キリリとした目元と太めの眉がクールな印象だが、スッと通った鼻筋の下にある厚めの唇が、なんとも色っぽい。
「隠さなくたっていいじゃない。合格通知に順位が書いてあったんだから、当然本人は知ってるでしょ? 実は私、ブービー賞で入ったの。だから、1位をとる人ってどんな人だろうと思っていたの」
「どんなって……。たまたまヤマが当たっただけだよ。まぐれってやつ」
「ふーん……」
乃愛にさらに見つめられて、時野はドギマギしながら目をそらす。
「なんだよ時野! 同期のマドンナを独り占めなんて、抜け駆けはよくないぞ」
乃愛に注がれたビールもすでに飲み干したらしい伍堂は、徐々に出来上がってきている感じだ。
「乃愛ちゃん、飲んでる?」
「うん、飲んでるよ。伍堂くん、今日のグループ討議を取り仕切ってくれてありがと」
乃愛は口元にかすかに笑みを浮かべた。
時野が見ると、伍堂の視線が乃愛の瞳にくぎ付けになっている。
(あ、ヤバい、これは……)
伍堂は乃愛の手をとって両手で包むと、乃愛をまっすぐに見つめた。
「乃愛ちゃん!」
「えっ?」
「君とは初めて会った気がしないよ! きっと俺たち、出会うべくして出会ったんだね……」
(出たよ、伍堂お得意の口説き文句、『初めて会った気がしない』)
伍堂とは出会ってまだ1週間ほどだが、何度この『初めて会った気がしない』を聞いたかわからない。
伍堂は惚れっぽく、誰彼構わず好意を振りまくタイプで、アルコールが入ると特に、この口説き文句を連発するのだ。
(下手したらセクハラだよ)
伍堂の口説き文句を耳にするたびに時野はハラハラするのだが、そこは伍堂の持ち前のカラッとした陽気な雰囲気で、いつも許されてしまうのだった。
「もう、伍堂くん、おもしろいんだから」
乃愛はさりげなく伍堂の手をほどき、サラリとあしらった。
おそらくモテるだろう乃愛ならば、伍堂のような輩の扱いにも慣れているのだろう。
伍堂の方も、それで気を悪くした様子はない。
「そうそう、さっきあかねっちとこはるんから聞いたんだけどさ。来週、実技演習があるだろ?」
あかねっちとこはるんとは、同じ班の安川茜と尾形小春のことだ。
伍堂はよく同期を名前やニックネームで呼んでいる。親しい呼び方をして距離感をバグらせるのが、伍堂的な他人との距離を縮めるテクニックなのだ。
「ああ、ココベルの工場に行って、重機を見させてもらうってやつ?」
「それそれ!」
時野の答えに頷きながら、伍堂が珍しく眉間にしわを寄せた。
ココベルとは、建設機械を製造販売している国内の大手メーカーだ。
労働基準監督官が担当する労働安全衛生法では、機械の安全な使用に関する規定も多く定められており、実技演習のカリキュラムの中で、ココベルの工場で様々な建設機械の実物を見学することになっているのだ。
「やあ、飲んでるかい?」
そこに、ウーロン茶のグラスを持って近づいてきたのは、准教授の山口貴則だ。
山口は本省回りの労働基準監督官で、現在は労働大学校の准教授を務めており、時野たちの新監研修を担当している教官だ。
40代らしいが、やや童顔なせいか、30代にしか見えない。
優しい顔立ちで人当たりも柔らかく、新監たちからも人気だ。
「あっ、先生! ココベルで高所作業車に乗るって、本当ですか?!」
腕にしがみつくように伍堂に迫られて、山口准教授も驚いている。
「え? うん、そうだよ。高所作業車の作業台に乗せてもらって、高所作業を体験してもらう予定だけど……」
「うわあー、やっぱりかよ……」
伍堂はその場にしゃがみ込んだ。
「はあー。俺、高いところ苦手なんスよ」
しゃがみ込んだまま准教授を上目遣いに見上げて、伍堂は言った。
「昔から、足が震えるほど怖くて。ジャングルジムなんか絶対上らなかったし、組体操は進んで一段目を選ぶぐらいで……」
(器用で何でも卒なくこなす伍堂にも、苦手なことがあったんだな)
山口准教授は、膝をついて伍堂の目線に高さを合わせた。
「大丈夫ですよ、伍堂くん。フルハーネスの安全帯も装着しますし、墜落の心配はありません。怖かったら、外側を見ないことです。作業台の床を見ていてください」
伍堂の肩にポンと手をのせると、さらにこう続けた。
「監督官は、労働者が働く場所ならどこでも行かないといけません。時には、高い場所に上らざるを得ない時もあります。今回少しだけがんばって、徐々に慣れていきましょう。特別に、伍堂くんの時はあまり高くまで作業台を上げないようココベルの人に言いますから。ね?」
山口准教授はそう言って、伍堂に優しく微笑みかけた。
「先生……」
伍堂は、山口准教授を熱い視線で見つめると――。
「俺、先生に初めて会った気がしないです!」
「!」
(上城さんはともかく、山口准教授まで……。見境なさすぎだろー!)
時野は額に手を当てると、ため息をついたのだった……。
§3
「安全帯ヨシ!」
男女の掛け声が、頭上から聞こえた。
今日は、伍堂が恐れていたココベルでの実技演習だ。
新監たちは前半組と後半組に分かれて研修を受ける。前半組は午前中に様々な重機を見て回り、午後から高所作業車に乗る実技を行う。後半組は逆の順路だ。
時野たち2班は前半組だ。午前中は、ドラグショベル、移動式クレーン、解体用機械などを見学しながら、ココベルの担当者から説明を受けた。
近くで見ると重機は想像よりはるかに大きく、それだけでも感動するのだが、メーカーの担当者から説明された改良の歴史などはとても興味深いものだった。
次はいよいよ午後の部――高所作業車の作業台に乗る実技だ。
実技は、1班、2班、3班の順番で行うことになっており、班の中での順番は、あらかじめ各班で決めておくよう指示されていた。
1班から順番に新監が2名ずつ作業台に乗り、最大高さまで上昇して停止した後、地上に下降する。
作業台が何度か上昇と下降を繰り返すと、2班の順番になった。
時野が見上げると、高所作業車の作業台の上に、フルハーネスの安全帯をがっちりつけた乃愛と倉橋の姿が見えた。
事前に決めたペア決めは、茜と小春、乃愛と倉橋、伍堂と時野の順だ。
安川茜と尾形小春のペアの実技は難なく終わり、今は乃愛と倉橋が作業台に乗っている。
乃愛とペアになった倉橋は、大喜びだった。
『一緒に高所作業車に乗ったら、上城さんといい仲になれたりしないかなー。ほら、吊り橋効果ってやつ』
吊り橋効果とは、恐怖や不安で心拍が高くなっているときに、ドキドキの原因が目の前にいる人物への恋心だと勘違いしてしまう心理現象のことだ。
『くっそー! 俺も乃愛ちゃんと恋仲になれるなら、高いところの怖さも紛れるかもしれないのに!』
伍堂はそう言って、くじ運の強い倉橋を羨ましがっていた。
(吊り橋効果なんて、現実にあるのかな? もしあったら、伍堂のヤツ、俺にまで……?)
作業台の上で、伍堂が自分の手を握り、『時野とは初めて会った気がしない!』と叫ぶ姿を想像して、時野は身震いした。
(伍堂は恋愛の守備範囲が広すぎだけど、僕的にはナシ!)
時野はふるふると頭を振って気持ちを切り替えると、再び高所作業車を見上げた。
乃愛と倉橋を乗せた作業台はさっき上って行ったと思ったのに、すでに地上に下りていた。作業台に乗っている時間は、ほんの数分のようだ。
乃愛と倉橋がフルハーネスの安全帯を脱ぐと、時野たちに渡した。
時野は倉橋から受け取って難なく着用したが、乃愛と伍堂は体格差が大きいので、乃愛がベルトを伸ばしてサイズ調整をしながら伍堂に着せてやっている。
乃愛にかいがいしく世話をしてもらって、伍堂の表情は緩み切っていた。
(これだけリラックスできれば、伍堂もなんとかなりそうだな)
ココベルの担当者の案内に従って、先に時野が作業台に乗り込み、伍堂も恐る恐る時野に続く。
ガシャンと入り口の扉が閉められると、時野は安全帯のフックを握り、近くの柵にかけた。
「伍堂」
「ああ」
伍堂がフックを握って柵にかけると、シャキンという高い金属音がした。
「ヨシ!」
2人で指さし呼称したのを合図に、ココベルの担当者が運転者にGOサインを出して、作業台がゆっくりと上昇し始めた。
作業台は、およそ2.5メートル×1.5メートル四方で、高さ約1メートルの柵に周囲を囲まれている。
成人男性が2人で乗っても十分な広さがあるが、伍堂は時野の腕にしがみつくようにして、ピッタリとくっついて立っている。
(やれやれ……。高所恐怖症というのは本当みたいだ)
「時野とペアでよかったよ」
アームが上昇する音に紛れてしまうようなか細い声で伍堂が言った。
「なんだよ。上城さんとペアになった倉橋のこと、さんざん羨ましがってたくせに」
「俺はな、時野と盟友になると決めてるんだ」
「え?」
時野が伍堂を見た。伍堂は作業台の床に視線を固定したままなので、目は合わない。
「今もこれからも、俺のピンチを救ってくれるのは時野しかいないと思ってる」
「……?」
(出会ってまだ1週間だぞ? 同じ班だから一緒に活動する機会は多かったけど、そこまで言うほどの仲では……)
「それって、どういう意味……」
「お前が爪を隠してることも、俺は知ってる」
伍堂が流し目で時野を見ると、ニッと口角を上げた。
「頼んだぞ」
(え?)
そう言うと伍堂は、視線を床に戻して時野の腕をさらに強く握りしめた。
「いたたた、力強すぎだって、伍堂!」
作業台を支えるアームが重低音で唸りながら、どんどん時野たちを上昇させていく。
(あれ? おかしいな)
実技演習に使用されている高所作業車はトラック式と呼ばれるタイプで、運転席の後方、通常のトラックで言えば荷台がある部分に折りたたんだアームと作業台が設置されている。
アームを伸ばし切ると、最大で9.9メートルの高さになる仕様だ。
10メートルではなく9.9メートルと半端な高さである理由は、高さ10メートルを超えなければ比較的簡単な運転資格で構わないので、10メートル未満の高所作業車に需要があるからだ。
(山口准教授は、伍堂の時は高さ5メートル程度で止めてもらうってさっき言っていたのに……)
午前中に山口准教授に確認したところ、他の組は最大に近い高さまで作業台を上昇させるのだが、伍堂の高所恐怖症を考慮して半分程度の高さで止めることになっているはずなのだ。
「う……あ……」
伍堂がガタガタと震えだした。どうやら下を見てしまったようだ。
時野も下を見て確認したが、明らかに5メートルを超えており、それどころかそろそろ最大高さまで到達しそうだ。
(なんで……)
急にガクッと膝が折れて、伍堂は床にうずくまった。
次の瞬間、パサリと音がしたかと思うと――。
「うああああ!」
伍堂が叫んで指さした先で、柵にかけたフックからストラップが垂れ下がって揺れていた。
(伍堂の安全帯のストラップが切れた?)
柵にかけられたフックと伍堂が着用するフルハーネスはストラップによって繋がっていたわけだが、ストラップが切れたことで、墜落防止の最後の砦である命綱すらない状態になってしまったのだ。
「あ……がっ……は……」
伍堂が、胸のあたりをおさえて苦しみだした。
見てみると、顔面はひきつり、身体はけいれんしている。
「落ち着け伍堂! おい、伍堂!!」
〈中編〉
§1
時野がスマートフォンで調べ物をしていると、LINEのメッセージを受信するアイコンが表示された。
LINEのトーク画面を開くと、新着メッセージが表示された。
乃愛からだ。
『伍堂くん、大丈夫そう?』
(大丈夫、今は落ちついたみたいでよく寝てる、っと……)
時野は乃愛に返信すると、傍らのベッドで眠る伍堂の顔を見た。
ここは、宿泊棟の伍堂の居室だ。
時野と伍堂は、労働大学校に戻ってきていた。
時野と山口准教授で伍堂を抱えながらタクシーに乗せて、連れ帰ってきたのだ。
(なんとか発作が治まって、本当によかったけど……)
上空に向かってアームが伸びきった高所作業車の作業台の上で、伍堂はパニックを起こした。
過呼吸になっているらしい伍堂は目を見開いて苦しみ、もはや時野がそばにいることも忘れてしまっている様子だった。
時野は伍堂の頬を両手で挟むと、自分の方に向けさせてしっかりと目を合わせた。
『伍堂。僕の声に合わせて呼吸して。吸って、吐いて、吐いて。吸って、吐いて、吐いて……』
目が合った伍堂は、時野がいることを思い出したようで、時野の声に合わせて素直に呼吸を繰り返した。
時野は作業台の柵の間から腕を水平に外に突き出すと、手のひらを下にして下方に振った。
地上の人たちもさすがに異変に気付き、すぐに作業台は下降し始めた。
『伍堂くん?!』
正しい呼吸は取り戻したものの、地上に下りても伍堂の顔面は真っ青で、作業台から降りると、ぐったりと座り込んでしまった。
普段の快活な伍堂を見ている同期たちは、伍堂の変わり果てた姿に言葉を失っていた。
(元々高所恐怖症だったとは言え、ここまでのパニックになった理由は、2つ……)
一つ目。予定では5メートルほどしか作業台を上昇させないことになっていたのに、最大高さの10メートル弱まで上昇させたこと。
これについては伍堂を連れ帰るタクシーの中で、山口准教授が伍堂に必死に謝っていた。
ココベルの担当者にうまく伝達できていなかったようで、高所作業車の運転者はその対応を取るべきは次の班のペアだと誤解していたのだという。
二つ目。フルハーネスの安全帯のストラップが切られていたこと。
伍堂が着用していたフルハーネスから伸びたストラップは、途中で切断されていた。
時野が確かめると、それは経年劣化などではなく、刃物で切断されたものだった。
(伍堂が装着した時、フルハーネスとフックは問題なくストラップでつながっていたはずだ。それなのに、上昇してから突然切れた……?)
命綱が機能していないことを目の当たりにして、伍堂はパニックで正気を失った。
(ストラップの切断は、明らかに人為的なものだ。でも、どうやって? そうだ、確か……)
時野はポケットに手を入れると、細長いそれの感触を確かめた。
声を出して一緒に伍堂の呼吸を整えていた時、伍堂の足元でキラリと何かが光るのが見えたのだ。
地上に下りる直前に時野はそれを拾い上げ、とっさにポケットに入れた。
(そうか、このやり方なら……突然ストラップが切断されたように見えるかもしれない……)
時野が考え込んでいると、布が擦れる音がした。
「時野……」
伍堂が目を覚まし、時野を見ている。1時間程眠っていただろうか。少し顔色もよくなったようだ。
「付き添っていてくれたのか」
「うん。気分はどう?」
「ああ。すっかり落ち着いた」
伍堂が起き上がったので、時野は背中を支えた。
「悪かったな、時野」
「……あんなにガチの高所恐怖症なら、申し出て断ればよかったのに」
「うん、まあ、こうなってみれば、そうすりゃよかったよな」
伍堂は弱弱しい笑顔を見せた。
「けどさ、先生も言ってたじゃん。監督官は、仕事で高いところに行かないといけない時があるって……。だから俺としても、これから監督官として職業人生を歩んでいくなら、少しは場数を踏んで慣れておく必要があると思ったんだ」
伍堂は手元に視線を落とした。
「それに、言い訳じゃないけどさ。俺もこれほどのパニックを起こしたのは初めてだよ。まあ、高いところを意識的に避けて生きてきたから、かもしれないけど」
「そうか……。そもそも、高所恐怖症って、いつから?」
時野の問いかけに、伍堂は腕を組んで考え始めた。
「うーん、いつからかなあ。覚えてないくらい前からだよ。物心ついた時には怖かった。もう理由もわかんないくらい」
(高所恐怖症、か……)
時野は、伍堂が寝ている間にスマートフォンで調べた文献の内容を思い出していた。
『高所恐怖症の発症原因は、遺伝的要因、心理的要因、環境的要因があると言われている……。遺伝的要因とは、家族内での高所恐怖症の集積性により遺伝子レベルで受け継がれること……。心理的要因とは、高所に対する過度の不安感によるもの……。そして、環境的要因とは……』
(高所で経験した恐怖体験による、トラウマ……)
§2
「伍堂くん、元気になってよかった! ほんっとうに心配だったんだから!」
安川茜の言葉に、隣で尾形小春もうんうんと頷いている。
伍堂が翌日の講義に出てきたのを見て、同期の多くの者が胸をなでおろしたことだろう。
昨日のココベルでの変わり果てた姿が嘘のように、伍堂はすっかり元気を取り戻し、いつもどおりの明るい笑顔で教室に現れた。
「心配かけてごめんね、あかねっち!」
にこやかに答えながら、伍堂は定食を載せたトレイを食堂のテーブルに置いた。
「心配なんてもんじゃないよぉー! だって伍堂くん、顔が真っ青で別人みたいに見えたんだから」
「ははは。高所恐怖症ってガチのやつだからさ。それにしてもあかねっち、そんなに心配してくれるなんて、俺勘違いしちゃうじゃん」
「もー、伍堂くん、チャラい!」
(また、あんなこと言ってるよ)
時野は伍堂たちから少し離れた席で、倉橋と昼食をとっていた。
伍堂が元気になってうれしいやら、相変わらずの見境のなさにあきれるやら、複雑な心境の時野だが、倉橋も同じ感想だったようで、「ま、元気になってよかったよな」と苦笑いしている。
「ねーねー、乃愛ちゃんも、俺のこと心配してくれた?」
伍堂は、安川茜の隣で食事をしている乃愛に話しかけている。
「もちろんよ」
意中の乃愛からその言葉を引き出して、伍堂は一層ハイテンションで喜んでいる。
「乃愛ちゃん、うれしいよ! お礼に今夜飲みに行かない?」
「ちょっとちょっと、私は飲みに誘わないわけ?」
安川茜が口をとがらせて伍堂に抗議した。
(飛び火しないうちに、逃げよう)
時野は残りのごはんを急いでかきこむと、食堂の隣にある談話室に逃げ込んだ。
談話室にはソファやテーブルがあって、飲み物や軽食の自動販売機が設置されており、各社の新聞が置いてあるほか、テレビもある。
講義がない時間帯は自由にテレビを観ることができるので、昼休みは大抵誰かがいて、テレビが点けっぱなし状態だ。
時野は自動販売機に硬貨を入れると、右手で指をさしながら目当ての飲み物を探した。
『大臣、就任早々ではありますが、海外からの旅行者によってもたらされた新型ウイルスの対策についてお伺いします』
後方にあるテレビの方に振り向くと、厚生労働大臣の定例記者会見の様子が放映されていた。
『その件については……抗ウイルス薬の早期の必要数確保を目指して……』
回答しているのは、最近厚生労働大臣に就任した志藤大臣だ。
「お、新しいうちのトップじゃん。先月だったっけ、就任したの」
「初入閣らしいけど、厚生労働省の副大臣を務めたこともあるしね」
談話室内の研修生たちの会話に時野が聞き耳を立てていると――。
「何飲むか迷ってんの?」
「わあっ」
ガコン、と自動販売機から飲み物が落ちてきた。突然声をかけられた拍子に、時野はボタンを押してしまったのだ。
「コンポタ飲みたかったん?」
声の主を見ると、伍堂が立っていた。時野が買ってしまったコーンポタージュスープの缶を指さしている。
「いや、本当はコーラだけど……」
(お前が驚かすから)
伍堂はスマートフォンを自動販売機にかざすと、ペットボトルのコーラを購入し、時野に差し出した。
「ほら。そのコンポタは俺がもらうわ」
「え。でも……」
「いいから。俺と時野の仲だろ?」
伍堂はニヤリとすると、時野から缶を取り上げ、ペットボトルを押し付けた。
「……」
(どういう仲だよ? 昨日の『盟友』発言といい、伍堂の僕に対する態度は一体……?)
「あのさ、先生に聞いたんだけど。お前、上で俺を介抱しながら、作業台を降下させるよう下に合図したんだって?」
伍堂の呼吸のリズムを確保しながら、時野は作業台の外に腕を水平に突き出し、手のひらを下にして下方に振った。
この動きは、主にクレーン作業で使われる手による合図で、『下ろせ』の意味だ。
ココベルは、建設用重機の国内大手メーカーだ。予想通り、ココベルの担当者はすぐに時野の意図をくみ取って作業台を下降させてくれた。
「クレーンの合図なんて、どこで覚えたんだよ?」
「それは……オンライン研修で特定機械の講義受けたとき、配布された資料の中にあったろ」
特定機械とは、ボイラー、クレーン、建設用リフトなど、特に危険性の高い機械として労働安全衛生法で規定された機械のことだ。
「は? 配布資料なんて、誰も全部見てねーし。講義では出てこなかったところまで読んでんのかよ!」
伍堂は、コーンポタージュの缶を持った手で時野を指さしながら、ケラケラと笑った。
「やっぱ、爪を隠してたな。聞いていた通りだ」
「え? 誰から……」
「あ、そうだ! これが本題なんだけどさ。さっき乃愛ちゃんを飲みに誘ったんだけど、『倉橋くんも一緒なら』って言うんだぜ。まさか倉橋の言った吊り橋効果じゃないよな? 時野どー思う?」
伍堂は眉を寄せてそう言うと、缶のプルトップを引いた。一口飲んで「あっつー」と舌を出している。
「吊り橋効果? ああ、倉橋と上城さんがペアで作業台に乗ったからか。うーん、上城さんはそんな単純そうに見えないけど……」
(ペア……。そうか。安全帯のストラップを切断した方法が僕の推理通りなら、作業台に乗る順番が肝だ。順番を決めたのは……)
「なあ伍堂。僕が聞いたときには、伍堂と僕が2班の3組目ってもう決まってたよな? ペアと順番はどうやって決めたんだ?」
「え? ああ、くじ引きだよ」
「くじ引き?」
伍堂は缶を傾けてコンポタを口に含むと、コーンの粒をシャクシャクと咀嚼した。
「うーん、正確に言うとくじ引きとは言わないかー。なんか手品みたいな、心理テストみたいな方法だった」
(手品? 心理テスト?)
「まあ、吊り橋効果については遺憾だが、結果的に俺はペア決めに不満はないけどな。盟友になる予定の時野と、絆が深まったんだから」
伍堂は時野に近寄ると肩を組んだ。
「は……? だからなんなんだよ、その盟友って……。て言うか、近い。暑苦しいから離れろ」
時野が押し返そうとすると、伍堂は余計にガッシリと肩を抱いてきた。
「まあまあ、そう照れるなって。あ、もしかして、時野も吊り橋効果で俺のこと……」
「はあ?! とにかく離れろっ」
力づくで押すが、体格のいい伍堂はびくともしない。
「俺、男でも女でも、年上でも年下でも、イケるクチだから。来る者は拒まないし、並行して複数人愛せるし。元々時野とは交流を深めるつもりだったけど、そっちの交流でも俺は構わないけど?」
(こ、こいつマジでヤバい奴だ!)
時野が青ざめて伍堂を見ると、時野を見下ろす伍堂の顔には不適な笑みが浮かんでいた。
(ん? この表情、どこかで見たことがあるような……)
§3
「うーんと、どうだっけな。そうそう、最初に1から6までの数字が書かれた紙を並べてさ、数字を3つ選ぶよう言われたんだ」
倉橋がそう言ったので、時野がルーズリーフを差し出すと、倉橋は器用に6枚にちぎり分けて、それぞれの紙片に1から6までの数字を書いた。
その日の放課後、時野と伍堂は再び談話室に来ていた。今度は、倉橋も一緒だ。
ペア決めの方法を伍堂に詳しく聞こうとしたのだが、昼休みが終わって時間切れとなってしまい、講義終了後、改めて倉橋を交えて再現してもらうことになったのだ。
「で、俺は単純に1・2・3を選んだ」
倉橋が思い出しながら、テーブルに置かれた6枚の紙片から『1』『2』『3』を手前に寄せた。
「そうしたら、その3つの数字から1つの数字を指さすよう言われて。3を指さした」
倉橋の指が『3』の紙片を動かした。
「すると今度は、指ささなかった2つの数字から1つを指さしてと言われたから、2を指さした」
倉橋は残っていた2枚のうち、『2』の紙片を指でトントンと叩いた。
「そうしたら、別に用意してあった6つの封筒が出てきて、『2』と書かれた封筒の中身を確認すると、『2組目』って書かれてたんだよ」
倉橋は、乃愛と共に2班の2組目に作業台に乗った。
「若干俺と手順が違う気がするけど、俺も大体そんな感じで数字を選んで『3組目』を引き当てたんだよな」
腕を組んで倉橋の手元を見つめながら、伍堂が言った。
「1人ずつ呼ばれてマンツーマンでやったから、伍堂は俺のを見てないし、俺も伍堂のは見てないもんな」
倉橋も顎に手を当てながらその時のことを思い出しているようだ。
「あっ! 倉橋が選んだ時の封筒の中身、全部『2組目』だったんじゃないか?! 倉橋自身が選んだように見せかけて、実はどの数字でも封筒の中身は同じだったんだよ!」
そう叫んで、伍堂は頭を抱えた。
「もしかして、乃愛ちゃんと倉橋がペアになるように工作されてたんじゃ……まさか、乃愛ちゃんは倉橋のこと……」
「いや、それはないよ」
「なんだよ、ここにきて謙遜かよ」
「いや違うって! 上城さんが俺に好意があるかどうかの方じゃなくて、封筒の中身の方!」
倉橋が慌てて手を振って否定した。
「実は、最後に他の封筒の中身も見せてもらったんだ。そうしたら、別の封筒には、ちゃんと『1組目』や『3組目』も入っていたよ」
2人の話を、時野はじっと黙って聞いていた。
(なるほど。やっぱりこのペア決めは操作されたものだった。意外と単純な方法で)
時野は、テーブルの上の6枚の紙片を見つめた。
(単純だけど、これなら意図した番号を確実に選ばせることができる。ただ、確かにこの方法だと、1人ずつ呼び出さないとダメだな)
「おい、時野はどうなんだよ。黙ってないで、なんか言え」
「ああ、うん。えーと、聞き忘れてたけど、このペア決めをしたのって、誰だったの?」
「え……」
伍堂と倉橋は互いの顔を見ていたが、代表して答えたのは倉橋だった。
「それは……」
*
6月の夕方の空気は、どこかジメジメとしていた。
九州地方は梅雨入りしたらしいが、労働大学校のある関東地方の梅雨入りは、まだ発表されていない。
(研修の終了日は、晴れだといいけど)
飛行機で帰る同期は、荷物は全て宅急便で送ると行っていた。
それも楽だが、いつも使っている化粧品やヘアアイロンなど、身支度ですぐに使うものは手持ちで持って帰りたい。
電車を乗り継いで労働大学校から帰宅するのに、荷物が多い上に雨に降られたらたまらない。
(梅雨入りは、研修が終わってからでありますよーに!)
時刻は18時半。まだ日は落ちていないはずだが、曇りのせいか、すでに薄暗い。
空を見上げると、徐々に雲の層が厚くなってきている気がした。
(買い物はさっさと済ませて帰ってきた方がよさそうね)
労働大学校の正門を出て、左に曲がろうとしたその時、突然背後から声をかけられた。
「夕食の買い出し?」
驚いて振り返ると、そこに立っていたのは――。
「時野くん……」
「ちょっと話せないかな?」
(嫌な予感)
昔から、こういう勘はよく働く方だ。
「ごめん、急いでるの。ほら、なんだか降りだしそうな空でしょ?」
じゃあと言って一方的に歩き始めると、時野が叫んだ。
「伍堂のフルハーネスのストラップを切ったのは、君だ!」
びくん、と身体が震えて、立ち止まる。
振り向くと、時野はすぐ後ろまで近づいて来ていた。
「そうだよね? 上城さん……」
〈後編〉
§1
朝霞中央公園は、野球場、陸上競技場、サッカー場があるほか、ジョギングコースや児童公園も隣接しており、朝霞市民の憩いの場だ。
公園内を斜めに横切れば、朝霞駅から労働大学校や住宅地方面への近道になるため、夜になってもそれなりに人通りがある。
時野と乃愛は黙ったまま歩いて公園内に入ると、適当なベンチを見つけて並んで腰かけた。
乃愛が場所を変えたいと言ったので、2人は朝霞中央公園で話をすることにしたのだ。
「ねえ。私がストラップを切っただなんて、そんなことできるわけがない。だって、伍堂くんが着用した時は、ストラップは切れてなんかいなかった。時野くんだって隣にいたんだからわかるでしょう?」
労働大学校の正門前で声をかけたときは緊張した表情だった乃愛だが、朝霞中央公園までの10分ほどの道のりで冷静さを取り戻したようだ。
「作業台が上昇してから、ストラップが切れた。理由はわからないけど、それが事実だもの。作業台に乗っていなかった私に、切れるわけがないわ」
「……ストラップを切ったのが、伍堂が作業台に乗った後ならね」
「え?」
時野は乃愛を見た。少し傾けた乃愛の横顔は、公園の電灯に照らされて、ハッとするほど美しかった。
「上城さん。君がフルハーネスを着用している間に、ストラップを切っておいたんだ。つまり、伍堂が着用した時には、すでにストラップは切断されていた」
乃愛は美しい目をつり上げて、時野に抗議した。
「なに言ってるの? 伍堂くんがフックを柵に引っかけたところを、私は地上から見ていたわ。ちゃんと、ストラップはフルハーネスとフックの間をつないでいたわよ」
「これを使ったんだね?」
時野の手元を見て、乃愛の顔色が変わった。
「作業台の上で拾ったんだ」
時野の手にあるのは、黒くて細長いヘアピンだ。
女性がヘアアレンジする際に髪を止めるために使う、シンプルなタイプだ。
「上城さんは、自分が作業台の上にいるときにストラップを切ったんだね。切った断面を重ねるようにして、ヘアピンではさんで留めた」
作業台の上にいる時なら、倉橋以外に見られる心配もない。
自分に好意のある倉橋1人だけなら、話で気を引くなりしてなんとでもごまかすことができる――乃愛はそうにらんだのだろう。
(大胆な犯行だな。ストラップを切るということは、自分自身も危険にさらすことになるのに)
「僕たちに交代するとき、サッと伍堂に近づけば、自然と上城さんのフルハーネスを伍堂に着せることになる。そして、ストラップの切断がバレないように慎重に着せる。そのために、伍堂がフルハーネスを着用するのを手伝ったんだ」
「……」
乃愛は唇を噛んで黙っていた。
「作業台が上がるにつれ、ストラップの重さや伍堂の動作で徐々にヘアピンに負荷がかかり、ついにヘアピンが外れてストラップが垂れ下がった……。あたかも作業台の上でストラップが切断されたように見えたのは、こういうトリックだったんだね」
「……」
静けさの中に、ジョギング中らしいランナーが通りすぎる足音だけが、ザッザッザッと響いた。
「でも……」
乃愛が絞り出すように声を出した。
「そのトリックを使うなら、私の次の組が伍堂くんでないとできないよね? ペア決めをしたのは私だけど、くじ引きで決めたの。誰がどれを引くかまではわからないわ」
「ううん、君は伍堂と倉橋を『誘導』して、意図した番号を選ばせたんだ」
時野はポケットから紙片を取り出した。
先ほど、倉橋が再現したときに使った6枚の紙片だ。
「それから、これ」
時野は胸ポケットから封筒を出した。封筒の中身を引き出すと、中から折りたたまれた紙が出てきた。
「ここには、まだ何も書かれていない。これから最後に残る数字を、僕が今から予測してここに書く」
乃愛から見えないように書き込むと、時野は紙を折りたたんで封筒に入れた。
「はい。上城さんが持っていて」
乃愛は封筒を受けとり、自分の膝の上においた。
「じゃあ、この中の数字を3つ選んでください」
乃愛はベンチの上に並べられた1から6の紙片をチラリと見ると、細い指で『1』『3』『5』を選んだ。
「では、選んだ中から、1つを指さしてください」
乃愛が、『1』を指さした。
「選ばなかった2つの数字のどちらかを、指さしてください」
乃愛の細い指が、『3』を指さした。
「そうしたら、指さされなかった方の数字……つまり『5』。これが最後の数字です。上城さん、封筒の中身を見てみて?」
乃愛は震える指で、封筒の中から紙を取り出し、開いた。
そこに書いてあったのは――。
「5……」
乃愛は紙を膝の上にぐしゃっと置くと、大きくため息をついた。
「煙草吸っていい?」
時野が答えるより早く、乃愛はシガレットケースを取り出すと、慣れた手付きで火をつけた。
「やっぱり、時野くんは鬼門だった。アルコールか恋愛感情で判断が鈍ってる奴が相手じゃなきゃ、通用しないわね」
(どうやら、僕の推理が正しいと認めたか……)
ペア決めのカラクリは、ごく簡単な『誘導』だ。
残したい数字をあらかじめ決めておき、いくつか数字を選ばせる中で、相手が選んだ方に対象の数字があればさらにその中から絞らせればいいし、選んだ方になければ選んでない数字の方から絞らせればいい。
ただし、同じやり方を繰り返すとさすがに気が付くので、1人ずつ呼び出して別々に行う必要があるのだ。
この方法で、『2組目』の封筒を倉橋に選ばせ、『3組目』の封筒を伍堂に選ばせた。
「安川さんと尾形さんも同じように『誘導』したの?」
乃愛はフーッと空に向かって煙を吐き出すと、長い足を組みかえた。
「ううん。元はと言えば、小春が女子とペアがいいって言い出したの。小春も高いところが苦手みたいで、ペアの相手が男子じゃしがみつきにくいって。それで、最初から茜と小春のペアで1組目は決まり」
(なるほど。何人もやると気がつく人が出てきそうだし、特に安川さんあたりはピンときそうだけど、うまく騙されたのは上城さんに気のある男共だけだったってわけか)
「あの、聞いてもいいかな。わからないことが2つあるんだけど……」
乃愛は時野に向かって手のひらを上に向けた。どうぞ、ということのようだ。
「こんな手の込んだことをやって、伍堂に嫌がらせをする理由は? 伍堂は上城さんに気があるみたいだけど、それが気にくわなかったとして、君に気がある男は他にもたくさんいるし、伍堂だけ狙う理由には……」
「たくさんいる、ね……。時野くんは違うの?」
「えっ! いや、僕は……」
クスクスと乃愛は笑った。
「ははは、そーだよね。私に気があったらうまくごまかせたかもしれないのに、ざーんねん!」
なんだか吹っ切れた様子の乃愛は、これまでのミステリアスな雰囲気よりもずいぶん話しやすくなっている。
「もう1つの質問は?」
「ああ、うん。このペア決めだけど、どうして僕にはしなかったのかなって。僕は伍堂から『お前は3組目だから』って一方的に言われただけだったから」
「ああ。それなら、伍堂くんが……」
(え……?)
§2
「デートするには珍しい場所だね」
空間が広いので、伍堂の声は少し反響して聞こえた。
「バスケとかバドミントンとか? スポーツデートするってんなら、ジャージに着替えてくるけど。どうしようか、乃愛ちゃん」
伍堂が笑いかけたが、乃愛はクールな表情のままだ。
ここは、労働大学校の体育館。
バスケットボール、バレーボール、バドミントン、卓球などの室内球技ができるほか、トレーニングマシンもあるので筋トレをすることもできる。
体育館は講義で使用されることもあるが、どちらかと言えば、放課後に研修生がレクリエーションで使用することの方が多い。
座学中心で運動不足になりがちなので、日によっては大変なにぎわいだ。
だが、今日の体育館は静まり返っている。
現在労働大学校に来ている新人労働基準監督官の研修が明日で終了するため、研修生たちは帰るための荷造りで忙しく、体育館に運動をしに来る者などいないからだ。
「それにしても……後で話したいって言うから2人きりだと思ったのに」
伍堂はため息をつきながら、もう1人の男を指さした。
「なんでお前もここにいるわけ? 時野!」
伍堂は、両手のひらを上に向けて首を振り、オーバーなアクションで残念がっている。
「もういいわ、伍堂くん」
落ち着いてはいるが、何かを抑えたような声だ。
「時野くんから聞いたでしょ? 伍堂くんのフルハーネスに細工をしたのは私だって」
「乃愛ちゃん……」
「私はあんたを排除しようとしたの!」
動機について時野が尋ねたとき、こうなったら伍堂に直接ぶつけると、乃愛は言った。
(2人の間に一体何が……?)
伍堂には、フルハーネスのストラップを切断した方法について、あらかじめ時野から説明しておいた。
ストラップが故意に切断されたということも、その犯人が乃愛だということも、伍堂は特に動揺を見せることなく聞いていたのだが……。
「排除って……穏やかじゃないね」
伍堂の顔面からは、さすがに笑顔が消えていた。
「伍堂くんが私を排除しようとしたからよ」
乃愛は、高所で怖がらせることで伍堂を退職に追い込みたかったのだと、時野に説明した。
『高所恐怖症の人が命綱もなく高所に立たされたら、きっと相当の恐怖を味わう……。監督官は高いところに上がる必要のある仕事。強い恐怖を与えることで、続けていくのは無理だと思わせたかったの』
(実際に退職するかは賭けだけど、そこまでして伍堂を辞めさせたい理由って……?)
「俺が乃愛ちゃんを排除って、そんなこと……」
「排除じゃないなら、恐喝でもするつもり?」
乃愛の声は大きくなり、語尾が体育館内に響いた。
「私に会ったことがあるって、ほのめかしたじゃない! 思い出したんでしょ? 昔の私を」
(昔?)
時野が伍堂を見ると、珍しく真顔だ。
「やっぱり、それを気にしてたのか……。エレンちゃん、だよね?」
「!」
乃愛は伍堂に近づくと、両手で胸ぐらをつかんだ。
「やっぱりわかってたんじゃない! 中途半端に匂わせてくるなんて、タチが悪すぎる!」
乃愛の美しい目元から、涙がこぼれた。
「せっかくここまでがんばって、夜職を卒業して国家公務員になったのに、あんたがバラせば水の泡。冗談じゃないわよ!」
乃愛はバンバンと伍堂の胸を拳で叩いた。
「いたたた。痛いって、乃愛ちゃん!」
伍堂は乃愛の両手をつかんだ。
「落ち着けって! そんなつもりないよ! 最初は気づかなかったし。俺は、乃愛ちゃんと同期になれて素直にうれしいし、過去がどうのこうのなんて言って、乃愛ちゃんの邪魔をする気なんかないよ!」
「え……」
「むしろ、乃愛ちゃんがいなくなっちゃうなんてマジでヤダ。だから、これからも俺の同期でいてよ。ね?」
「伍堂くん……」
見つめ合う2人の世界に、水を差す男がいた。
「あのー。そろそろ、僕にわかるように説明してもらっても?」
時野が割り込んできたので、伍堂があからさまにイヤな顔をした。
「お前なあー。空気読めよな。俺は今、乃愛ちゃんといい感じになってるだろーが!」
「は? 元から僕もいるのにいい感じもなにもないだろ!」
時野と伍堂のやり取りを聞いて、乃愛がクスクスと笑い出した。
「あはは。そうだよね……。時野くんにも、説明しなきゃね」
乃愛は時野の前に立った。
「私……キャバクラで働いてたの」
(え?)
「親と折り合いが悪くて、高校までは出してもらえたけど、そこからは見放されて。大学の学費と都内で一人暮らしをする生活費を稼ぐために……。これでもその店のナンバーワンだったのよ」
源氏名、エレン――。
18歳になるとすぐに入店した乃愛は、持ち前の美貌で人気のキャバクラ嬢になったのだという。
そんな時、大学院生の伍堂が教授らと共に来店した。
当時、伍堂が所属する研究室では、企業と共同研究を行っており、その企業の担当部長がエレンの太客であったのだ。
「その頃は、公務員試験の勉強に専念する期間のために、少しまとまったお金が必要だった。客に無理をさせてお金を使わせているところを、一緒に来店した伍堂くんに見られてた。そうやって荒稼ぎしたお金で、私は大学を卒業したし、予備校に通って公務員試験に合格したの」
乃愛は、伍堂の方に振り返った。
「公務員になれて、夜職も卒業して、これからはやっと普通に生活できるって思ってたのに……。伍堂くんに再会して、キャバクラ時代の私を覚えてるってわかった時は、同期や署の人たちにバラすんじゃないかって不安で……」
伍堂は乃愛に近づくと、頭をポンポンした。
「ごめん、不安な気持ちにさせて。だけど、断じて俺はそんなつもりないよ? むしろ、俺は尊敬してるもん、乃愛ちゃんのこと」
「え?」
「だって、夜遅くまで働きながら、学費も生活費も自分で稼いで、公務員試験の勉強まで……。まじリスペクトだし! がんばり屋さんの自慢の同期!」
「でも……。私は、伍堂くんをあんなに危険な目に遭わせたのに……」
「ははは、それはもういいって! ほら、今はこうして元気だし。乃愛ちゃんがいなくなったり俺のこと嫌いになったりする方がイヤだよ。だからこれからも仲良くして? ね、エレンちゃん」
「ちょっと! 源氏名で呼ばないでよ!」
乃愛がポカポカと伍堂を叩いている。
伍堂は乃愛の腰に手を回し、ほとんど抱き合っているような格好だ。
(いやだから、隙あらば触るなってば。こいつ心は海よりも広いけど、こういうとこはスレスレなんだよな)
半眼で伍堂を見ながら、時野はあることを思い出した。
「あのさ、気になるから確認なんだけど……。伍堂が昔の上城さんに気が付いてるって、どうして思ったの?」
乃愛は時野の方を向いてキョトンとした。
「え? だって、時野くんも聞いてたでしょ? 懇親会で、伍堂くんが『初めて会った気がしない』って私に言ったのを」
「!」
(だから言わんこっちゃない! 伍堂お得意の口説き文句が元凶かよ)
引き続き乃愛にベタベタしている伍堂から目をそらすと、時野は深くため息をついたのだった。
§3
「皆さん、前期研修おつかれさまでした。家に着くまでが研修です! 気を付けて帰ってくださいね。また後期研修でお会いしましょう!」
山口准教授が笑顔で締めくくると、当番が号令をかけた。
「起立! 礼! ありがとうございました!」
研修を終えた解放感と、同期と離れ離れになる寂しさ。
新監たちは、複雑な気持ちで家路につく。
時野は一旦居室に戻って荷物をまとめると、スーツケースを引いて労働大学校の1階に下りた。
エントランスは、新監たちでごった返している。
同じ方向の同期に一緒に帰ろうと誘う者、次の休みに会う約束をする者、署に研修終了の連絡を入れる者――。
(そうだ、一主任に連絡しなきゃ)
時野はスマートフォンを取り出して、角宇乃労働基準監督署に電話をかけた。
『はい、角宇乃労働基準監督署です』
「一方面の時野です、おつかれさまです」
『時野さんじゃないですか、おつかれさまです! 研修先から?』
電話の主は、総合労働相談員の今野だ。親子以上に年が離れているが、気さくな人柄で話しやすい。
署から離れてたった2週間だが、職場の同僚の声を聞くと、なんだか懐かしいような恋しいような感覚がした。
「はい、研修が終わった報告で電話しました! 一主任はいらっしゃいますか?」
『それはおつかれさまです。一主任ね、ちょっと待ってて』
長い保留音のあと、電話に出たのは加平だった。
「一主任は外出してる」
「あ……そうなんですね。前期研修が無事終わったので、ご報告しようと……」
「わかった。戻ったら伝える。じゃあな」
「あっ」
もう電話は切れていた。
(加平さん、つれない。らしいと言えばらしいけど……。同じ一方面として打ち解けたと思ってたのに、離れていた2週間でなんだか後戻りしたような……)
時野がシュンとしていると、背後から声がした。
「署に電話したのか? 俺もさっきかけたんだけどさー、さっそく机の上に仕事を置いといたからとか言われてげんなりだよ。戻りたくねーなー」
伍堂だ。後頭部をかきながら、ため息をついている。
「まあまたすぐに後期研修もあるし、それまで頑張るしかねえか」
「……」
「時野? どした?」
時野がじっと見つめてくるので、伍堂が不思議そうな顔をしている。
「伍堂。一緒に帰らないか」
伍堂が所属するS労働局は、K労働局の隣県。帰る方向は同じだ。
「えっ! もちろんいいけど、どうしたんだよ。時野から俺を誘うなんて、明日は雪が降るんじゃないか」
伍堂は明るく答えたが、時野は黙って歩き出した。
「え? おい、待てって、時野」
伍堂は慌ててスクエアリュックを背負うと、時野を追いかけたのだった。
*
「研修おつかれ!」
伍堂が差し出したグラスに、時野も自分のグラスを軽く当てた。
2人はK県内の縦浜駅近くの居酒屋に来ていた。
伍堂の自宅の最寄り駅であるS県の八島駅は、縦浜駅からさらに約1時間45分。
到着する頃には腹ペコになってしまうし、自宅に戻ってもどうせ食べるものがないからと、時野の最寄り駅で伍堂も途中下車して、一緒に夕食をとることにしたのだ。
「研修楽しかったなー。早く後期研修に行きたいよ」
伍堂は乾杯の生ビールを早々に飲み干すと、2杯目のハイボールに口をつけた。
「時野には何かと世話になったな。後期研修でも同じ班になったらいいなって俺は思ってるよ」
時野はごくりとビールを飲むと、ドン!と勢いよくグラスを置いた。
「……伍堂。お前、一体何を企んでるんだ?」
「は? 企むって、何が……」
「お前、本当は気がついてたんだろ? 上城さんが、お前に何かしようとしてたこと」
「え?」
「わかっていたから、僕とペアになるようにしむけた」
「だからそれは、乃愛ちゃんが『誘導』でペアを決めたんだろ? 時野がそう言ったんじゃないか」
伍堂は困ったようなにやけ顔をしている。
「僕は『誘導』されてない。上城さんから聞いた。僕にはするなって伍堂が言ったと」
「……」
倉橋、伍堂、と個別に呼び出して『誘導』によりペア決めをしたとき、乃愛は次に時野を呼び出そうとしたのだが、伍堂に止められたのだという。
『伍堂くんが、時野にそれをするのはやめておこうって言ったの。俺とペアの3組目ってことで勝手に決めちゃおうぜって』
(つまり伍堂は、上城さんが『誘導』でペア決めをしていることに、本当は気がついていたということだ)
乃愛が自らと倉橋を2組目にして、伍堂を3組目に『誘導』したことで、高所作業車の実技演習中に何か仕掛けてくると踏んだのだ。
時野なら『誘導』を見抜いてしまうと予想した伍堂は、時野にバレて乃愛の思惑が実行できなくなるのを防ぐと共に、自らの護衛役としてペアに時野を選んだ。
「上城さんの不穏な空気にお前は気づいていたんだ。このペア決めは『誘導』だと指摘すれば、上城さんの計画は頓挫したはずだ。それをしなかったのはなぜか――」
時野は、伍堂を睨んだ。
「僕を試したんだな?」
伍堂も時野を見ていた。いつも上がっている口角も、今は真一文字に結ばれていた。
「上城さんが仕掛けてきた時に、僕がどんな対応をするか試したんだよな? なんでそんなことしたんだ? 答えろよ」
自分が普段より低い声を出していることに、時野は気がついた。
「……」
居酒屋の喧騒の中で、時野と伍堂は視線をあわせて押し黙っていたのだが――。
急に、伍堂がぷはっと吹き出した。
「そんな怒んなって。悪かったよ」
伍堂はいつもの明るい表情に戻っていたが、時野は伍堂を睨んだままだ。
「研修前から聞いてたんだよ、時野がかなりのキレ者だって。だから、それが本当かどうか、確認してみたくなったんだ」
伍堂はハイボールをごくごくと飲み干した。
「俺だって、乃愛ちゃんがあそこまでするとはさすがに思ってなかったよ? でも時野は的確に対応してくれた。助かったよ。いや、期待以上だった。乃愛ちゃんの仕業だってところまで解き明かしたんだから」
「……」
「わーるかったって! な? 機嫌直せよ」
伍堂は身を乗り出すと、時野の肩をバンバンと叩いた。
「誰だよ」
「え?」
「僕のことを伍堂に話したのは誰なのか、って聞いてる」
時野の質問を無視して、伍堂は通りがかった店員にハイボールのお代わりを注文した。
「時野も何か頼む?」
「……答えないつもりか?」
「それはまたおいおい話すよ」
「……」
(馴れ馴れしく近づいてくるくせに、自分の全部は見せない。伍堂のこういうところ、本当に気にくわない)
*
「じゃあな!」
改札の前で振り向き、伍堂が笑顔で手を振っている。
時野はため息をつくと、伍堂に向かって軽く右手を上げた。
時刻は20時を過ぎたところだ。
伍堂が八島駅に着く頃には、22時を過ぎるだろう。
あの後の伍堂は、ひたすら適当な話をしゃべり、楽しそうに飲み続けた。
伍堂が楽しそうに絡んでくるので、時野の方も緊迫感を保つのが難しくなってきて、今日のところはもういいか、と諦めてしまったのだ。
(この底抜けに明るいところが伍堂の憎めないところだ。悪いヤツってわけではなさそうだし、同期としてこれからもつきあっていくことになるんだし、もうヨシとするか……)
伍堂はICカードを手に改札に近づいたのだが――。
「あ、そーだ」
伍堂が振り向いた。
「時野!」
「なんだ?」
「俺、お前の秘密、知ってるよ!」
(は……?)
「だから……これからもよろしくな」
そう言ってニッと笑った伍堂の表情に再び既視感を覚えた時野だったが、一体どこで見たのか一向に思い出せないのだった……。
ー第2話に続くー
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