本編:第1話「賃金不払」
§1
市役所や警察署、税務署といったメジャーな役所が市内の中心地にあるのに比べて、角宇乃労働基準監督署は「町外れ」と言っていいような場所にあった。
JR角宇乃駅から徒歩25分――。もはや最寄り駅とは言いがたいほど駅から離れた場所に、角宇乃労働基準監督署の庁舎はある。
時野は角宇乃駅前に降り立つと、スマートフォンで目的地である角宇乃労働基準監督署の位置を確認した。
角宇乃労働基準監督署までは何度か分岐があり、なんとも複雑な道順だ。
「……よし、行くぞっ」
時野は自分に気合いをいれると、労働基準監督官の道のりの第一歩を踏み出した。
*
「こんにちは。どのようなご用件ですか」
(こういうのは、最初が肝心だ)
時野は角宇乃労働基準監督署の受付に立つと、繰り返しイメージトレーニングを行ったセリフを発声した。
「本日付けで角宇乃労働基準監督署に配属になりました、と、時野と申します」
(うぐっ! 自分の名前で噛んだ!)
庁舎内は外よりもいくらか涼しいはずなのに、さっき駅からの道を歩いてきた時よりも、汗がダラダラと流れてきた。
「あ……ちょっとお待ちくださいね」
「総合労働相談員 渡辺」と書かれたストラップ付き名札を首からぶら下げたその女性は、時野を見てくすっとすると、きょろきょろと誰かを探し始めた。
「……あれ? 一主任はいらっしゃらないのかしら」
渡辺相談員が探しているのは、一番上座に座る役職者のようだ。
いないことがわかると、近くの席に座っている男性職員に近寄っていく。
「加平さん、ちょっとよろしいですか。新人さんが窓口にいらしてますけど、一主任がいらっしゃらないみたいで……どうしましょう」
加平、と呼ばれた男性職員は、時野の方をぎろりと見た。
(う、睨まれた?)
加平はこちらに近づいてくると、時野の目の前に立った。
昨夜のイメージトレーニングでは、優しそうな中年の上司が出迎えてくれる設定だったのだが、リアルの記念すべき先輩第1号は、なんとも目つきが悪い。
加えて、加平は背が高い。細身だが180センチメートルを超えているようで、見下ろしてくる感じはかなりの威圧感だ。
(極道の若頭……闇金融の取り立て屋……良くてマル暴の警察官)
加平の第一印象を頭の中で言語化しながら硬直していると、加平がくいっと顎を動かした。
どうやら、ついて来い、という意味のようだ。
慌てて受付の横から中に入り、加平の後を追う。
「ここがお前の席」
加平が指さした席は、加平の席の左隣だ。
「いつまで立ってる。座れ」
「は、はい!」
(席の配置からすると、この加平さんって人が直属の先輩なのだろうか……)
「……とりあえず、基準システムの設定。パソコンを起動したら、ここにあるIDと初期パスワードを入力」
基準システムとは、労働基準監督署の業務用システムらしい。
加平の言葉は短く、必要以上のことをしゃべらないタイプのようだ。
(だけど、必要なことは教えてくれているみたい)
席に案内だけされて放置されるのかと思ったのだが、一応新人である時野の面倒を見てくれているらしい。
(人を見た目で判断してはいけない)
少し安心して加平の方を見ると、加平が時野を睨みつけた。
「なにボケッとしてんだよ。もう画面立ち上がってるだろ。入力!」
「は、はいっ」
(やっぱり、見た目通り怖い!)
加平は足を組んで椅子に座ったまま短い言葉で時野に指図し、時野は時折怒られながらも、なんとか設定を終えた。
「今は上が誰もいないから、とりあえずこれでも読んどけ」
手渡されたのはA4の小冊子で、表紙に「労働基準法のポイント」と書かれている。
(「上」というのは、先ほど渡辺相談員が探していた「いちしゅにん」のことだろうか。もしくは署長のことかな?)
労働基準監督署のトップは署長だ。
さらに、角宇乃労働基準監督署には副署長もいるらしい。
午前中に労働局で人事の人から教えられたことだ。
労働局とは労働基準監督署の上位の役所で、各都道府県に1か所ずつ置かれ、県内に複数か所ある労働基準監督署を束ねている。
労働局が「支社」で、労働基準監督署が支社の下にぶら下がる「営業所」といったイメージだ。
時野たち新入職員は、今日4月1日の午前中、労働局に集められて労働局長の訓示を受けた後、採用に関わる事務手続きを経て、午後から配属先に移動してきたのだ。
加平を見ると、机に書類を広げて自分の仕事をし始めていた。
「あ、あの!」
話しかけようとして思いのほか大きな声を出してしまい、加平が驚いた顔で時野を見ている。
「申し遅れましたが、時野龍牙と申します。どうぞよろしくお願いします!」
(うし! 今度こそ噛まずに言えた)
「あぁ……。加平だ」
加平は短く名乗り、すぐに手元の書類に視線を戻した。
(加平さんも名乗ってくれたし、一応、先輩への自己紹介成功。……ってことにしとこ)
時野が「労働基準法のポイント」を開いて目次から眺めようとしたその時、怒号のような大声が事務室内に響き渡った。
§2
「だーかーらー! 上の人出せよ。あんたじゃ埒が明かねーんだよ!」
加平がぴくりと動き、窓口のカウンターに座る客に鋭い視線を走らせている。
時野も声の主を探そうと窓口に目を向けた。
接客用のカウンターの外側には何組か客が座っており、カウンターの内側にそれぞれの客に応対中の職員が座っている。
一番奥まった席に座る男性客が、声の主のようだ。
表情まではよく見えないが、深めにかぶった野球帽から金色に染めた頭髪がはみ出ている。
「……新監、お前も来い」
加平はそう言って立ち上がると、ずんずんと事務室内を歩いていく。
(しんかん? 僕のことかな?)
時野はあわててメモとペンを取り出し、加平を追いかけた。
「今野さん、どうしました?」
加平から「今野」と呼ばれた初老の男性は、カウンターをはさんで金髪男と向かいあって座っていた。
名札からすると、今野も相談員のようだ。
「勤務先を退職したら、最後の賃金が支払われないそうなんです。それで……」
「だから今すぐ社長に払わせてくれって言ってんのに、このじいさんがわけわかんねーことばっかり言ってんだよ!」
「ですから、そのような場合は一度社長に対して書面で請求していただいて、それでも払われなければ監督官が調査に入りますと申し上げているじゃないですか」
「あ? 請求したって何度も言ってるじゃねーかよ!」
金髪男は噛みつかんばかりに身を乗り出す。
「で、ですが、口頭で請求しただけとのことですよね? 一度書面で……」
「はぁ? ったく、話通じないじいさんだな! だから上出せって言ってんだよ、耳ついてんのかよ、コラ」
金髪男は、ますますヒートアップしている。
「お前ら、俺達が払った税金で飯食ってんだろーが! さっさと動けって言ってんだよ、このクソ公務員が!」
時野はハラハラしながら、金髪男と今野相談員のやりとりを見ていた。
加平も黙って様子を見ているようだったが――。
「1回死ねよ」
加平が低い声で言い放った。
(えっ……?)
金髪男と今野相談員が、加平の方を向いて固まった。
時野は空耳か聞き間違いかと思ったのだが、そうではなかったようだ。
次の瞬間、金髪男が勢いよく立ち上がると、今野相談員の横に立っていた加平の胸倉をつかんだ。
「オイ、てめぇ今なんつった? なめてんじゃねーぞ」
加平の方はと言うと、凍てつくような冷たい目で金髪男を見返している。
加平が金髪男の腕をつかんで力づくで胸元から引き離したのを契機に、乱闘でも始まりそうに空気が張り詰めた。
(一触即発……! 格闘技でも習っておけばよかった!)
微力でも加勢すべきか時野が悩んだ、その時――。
「はいはいはいはい、どうされましたかー?」
男性の職員が小走りで駆けつけてきて、加平と金髪男の間にぐいっと腕を差し込んだ。
柔和な表情を保ちながらも、金髪男としっかり目を合わせ、自分に矛先を向けさせようとしているようだ。
最初こそ激高していた金髪男だったが、男性職員と話すうちに徐々に落ち着き、男性職員からの質問に応じ始めた。
最終的に「ではまた連絡させていただきますので」と話を締めくくられると、金髪男はおとなしく庁舎を後にした。
金髪男の姿が見えなくなったのを確かめると、男性職員が加平の方を振り返る。
「かーひーらー。相手の調子に合わせるなっていつも言ってるだろ」
「……すみませんでした、一主任」
加平が襟元を直しながら答える。
(いちしゅにん?)
「お。もしかして、君が新人くん?」
男性職員が時野の方を向いて笑顔を見せる。
「は、はいっ! 時野龍牙と申します。よろしくお願いします!」
「ははは、初日から大変な目に遭ったね。第一方面主任の紙地です、よろしく。君の直属の上司ってことになるかな」
紙地一主任は、時野の肩をポンと叩いた。
(この人が、直属の上司……。結果的に、イメージトレーニング通りだ)
出勤初日のその後は、紙地一主任の案内で署内の各部署にあいさつ回りをし、1日を終えた。
帰宅した時野がバタンキューだったことは言うまでもない。
翌日、時野が出勤すると、紙地一主任と加平が昨日の件について話をしていた。
「でも加平、大丈夫なのか? 昨日の相談者とはかなり相性が悪かったみたいだが」
「あんな奴と相性がいい者がいるわけありません」
「うん、まぁそうだろうけど……。流れ的に、このまま俺が担当しようと思ってたんだが」
「いえ、自分がやります。この程度の事案、一主任にお出ましいただくほどではありません」
「わかった。なら、頼む」
時野が2人を見ていると、紙地一主任が気付いて手を挙げた。
「おはよう、時野くん」
「一主任、加平さん、おはようございます」
「昨日の事案の調査、お前も来い」
挨拶の代わりに、加平が言った。
「あー、そうだね。前期研修までに実地訓練も積んでおかないといけないし。というわけで時野くん、加平と一緒に申告監督に行ってきて」
(しんこくかんとく?)
「これ、読んどけ」
加平から渡されたのは、「申告処理台帳」と書かれた書類だ。
どうやら、昨日の金髪男の賃金不払事案について、調査することになったらしい。
労働者から労働基準法違反の疑いがある相談が持ち込まれ、相談者が調査を希望した場合、それを「申告」と呼ぶ。
申告事案について調査を行うことを「申告監督」と言い、法律違反が特定されれば事業場に対して文書指導をするのだと言う。
「昨日の申告、まさか時野さんが担当するの?」
時野の手元にある申告処理台帳を横から覗き込みながら、今野相談員が言った。
時野の左隣の机は相談員が交代で座っている席らしく、今日は今野相談員が座っている。
「いえ、まさか! 担当されるのは加平さんです。僕は研修のために同行させてもらうことになって」
「だよね。新人さんでいきなり申告処理をするわけないか」
昨日の今野相談員は終始眉間にしわを寄せていたが、今日はにこやかな表情で、近所にいそうな気のいいおじさん、という雰囲気である。
「昨日の相談者、窓口で騒ぎ立てて結局申告受理になっちゃったね。賃金不払の場合、一度は自分で事業場に請求書を出してもらうことになってるんだけどねぇ」
「そうなんですか」
「うん。請求書に対して事業主が『払わない』と回答したり、指定した期日までに支払いも回答もなければ、事業主が賃金を支払わない意思が明確であるものとして、申告受理になるのが通常の流れなんだけどね」
(なるほど。単なる支払い忘れのような、違反の意図がないケースを排除するためか)
「まあ今回は、一主任の判断で受理することになったわけだけど」
「昨日『冷徹王子』とバトってたお客さん、申告になったんですね」
声の主は渡辺相談員だ。今野相談員の向かい側、時野からすると斜め前の席に座っている。
「冷徹王子?」
時野がきょとんとすると、渡辺相談員はくすっと笑った。
「加平さんのことよ。昨日見てわかったでしょ。人との接し方が、『冷静』を通り越して『冷徹』。昨日みたいなお客さんに対しては、特にね」
加平がいつの間にか席をはずしていたので、渡辺相談員もこんな話をするのだろう。
「私たち相談員が困ってたらすぐに出てきてくれるし、頼りになるじゃないか」
「それはそうですけど、もうちょっと愛想よくしてくれないかなーって思うとき、今野さんもありません? 話しかけてもにこりともしないし、挨拶もろくに返してくれないし。そんな調子だから定期的にお客さんとバトって、その度に一主任が飛んでいく、っていうのがもはやお約束ですよね」
今野相談員が、まあね……と同意する。
「まあ昨日みたいな時は、加平さんが冷徹対応してくれてスッキリする場合もありますけど。そうそう、昨日の相談者と言えば、帰るところを見ましたけど、高そうなスポーツカーに乗ってましたよ。ものすごいエンジン音で走り去りましたけど。騒音と言ってもいいぐらい」
(騒音……。改造車だろうか)
騒音を響かせてスポーツカーを乗り回し、役所で騒ぎ立てる金髪男。
(いやいや、偏見はいけない、偏見は。労働基準監督官は、困っている労働者の味方でなければ)
2人の相談員たちが来客対応に出てしまったので、時野は申告処理台帳に目を通すことにした。
申告処理台帳とは、相談者や事業場の情報、相談内容をとりまとめた書類で、今回は申告を受理した一主任が作成したようだ。
申告処理台帳の後ろには、相談したいことの概要を相談者が記入した相談票や、相談者が持参したらしい給与明細の写しが添付されていた。
(2月分の給料1か月分、約30万円の賃金不払か――)
「目を通したか」
いつの間にか加平は席に戻ってきていた。
「あ、はい」
時野が返事をすると、加平は手のひらを時野に向けた。
こちらによこせ、という意味のようだ。
申告処理台帳を渡すと、それを見ながら加平はどこかに電話をかけている。
聞き耳を立てると、どうやら金髪男の勤務先にかけているようだ。
加平が社長への取次ぎを求めると、すぐに社長が出たようだが、なんだか会話の雲行きが怪しい。
「……ですから、そう決めつけているわけではありません。事実確認のため、お話を伺いたいと申し上げています。……ええ、それはわかりましたが、お会いして話を伺えませんか」
社長が何を言っているかまでは聞きとれないが、受話器越しに怒鳴るような大声が聞こえてくる。
(相談者だけではなく、社長の方もキレているみたいだ)
すると、突然電話が終わった。
加平はため息をついて受話器を置き、時野の方を向いた。
「切られた。話したいことがあるなら今すぐ来い、だそうだ。行くぞ」
§3
申告処理台帳によると、申告者の氏名は、山本翔太。年齢は30歳。
申告者とは、昨日の相談者である金髪男のことだ。申告を受理した後は、そういう呼び方になるらしい。
山本が賃金不払だと訴える事業場の情報は、次のとおりだ。
- 事業場名:阿久徳興業株式会社
- 所在地:角宇乃市南区○○町○○ー○
- 業種:建設業、各種商品卸売業
- 労働者数:46名
(事業場名は、阿久徳興業か。阿久徳……あくとく……悪徳……)
時野はふるふると頭を振った。
(字面の響きで事業場の良し悪しを判断してはいけない)
労働基準法では、人を雇用している会社などを「事業場」と呼ぶ。法人だけではなく、個人事業であっても呼び方は同じだ。
時野は加平と官用車に乗って、阿久徳興業に向かっていた。
ここは後輩の時野が運転すべきだろうと思ったのだが、新人は研修が終わるまでの間、官用車を運転してはいけないルールらしい。
時野はちらりと運転席の加平を見た。
(運転は、ハラハラするところがない)
正直、時野は心配していた。
これから阿久徳社長と話をすることになるのだろうが、昨日の「死ねよ」発言を真横で聞いた時野としては、加平が社長ともバトルするのではないかという一抹の不安を覚えているのだ。
(昨日は一主任が駆けつけてくれたけど、今度は僕しかいない。うー、やっぱり公務員でも格闘技は習っておくべきだったな)
「着いたぞ」
時野が顔を上げると、加平の運転する官用車が阿久徳興業の敷地内に入るところだった。
来客用、と表示された駐車場に向かって、加平は官用車をバックで駐車しようとしている。
助手席側から後方を向いた加平の横顔が、時野の視界に入った。
一重瞼の奥にある漆黒の眼球は黒真珠のようで、不思議な魅力を感じさせる。
その黒真珠がゆっくり旋回し、時野を見ると――。
「なにバカ面してる。早く降りろ」
(もー、言い方!)
少し赤くなりながら時野は車を降り、加平の後ろを追いかけたのだった。
受付で社長への取次ぎを依頼すると、眼鏡をかけた若い男性が丁寧な対応で社長室に案内してくれた。
社長室にはゆったりとした立派なソファとテーブルが置かれていて、応接室としての機能も併せ持っているようだ。
「社長はすぐに参りますので、おかけになってお待ちください」
眼鏡の男性はテーブルの上にコーヒーが入ったカップを2つ置くと、一礼して社長室を出ていった。
社長室には全体的に成金感のある調度品が並んでいたが、床の一角に敷かれた一際鮮やかな模様の絨毯を見て、時野は度肝を抜かれた。
(と、虎の絨毯だ! リアルに持ってる人っているんだ)
時野が絨毯に目を奪われていると、突然ガチャリと社長室のドアが開いた。
入ってきたのは50代後半ぐらいの男性で、ワイシャツの上に社名の入った作業着を着ている。
下はスラックスを履いているが、表現しにくいド派手な柄だ。
(どこに売ってるんだろう、こんな派手なスラックス……)
「お前らか、山本の代理人というのは」
怒りを帯びた大きな声に、時野はびくっと肩を震わせた。
(この人が、阿久徳社長。やっぱり、怒ってるよー)
「代理人ではありません。角宇乃労働基準監督署の加平と申します」
阿久徳社長は加平が差し出した名刺をひったくるように受けとると、名刺の字面を睨むように確認していたが、やがて懐から黒革の名刺入れを取り出して、無言で名刺を渡してきた。
(阿久徳興業株式会社 代表取締役 阿久徳大二郎……)
阿久徳社長がソファに腰を下ろしたのに合わせて、加平が話し始めた。
「山本翔太さんから、賃金が払われないとの相談がありました。事情をお聞かせいただけますか」
「そんなの当たり前だろう! 働いて返す約束で、あいつには金を貸しているんだ! それが急に来なくなって、連絡がつかないと思ったら、労基に駆け込んだだと?」
(会社から借金……? そんな話はなかったはずだけど……)
手元の申告処理台帳をすばやく見返してみたが、やはり、そのような記述はない。
「給料を払え? ふざけるのもいい加減にしろ! 50万円も貸して、まだ1円も返ってきてないんだぞ! 山本の月給なんかで足りるわけないだろ!」
阿久徳社長の口調はどんどんヒートアップし、興奮で顔が赤い。
「借金、ですか」
「ああ、そうだ。50万円だ。何なら借用書を見せてもいい」
「お願いします。それから、山本さんの労働時間の記録と、賃金台帳も」
阿久徳社長が内線電話をかけて指示すると、先ほどの眼鏡の男性が書類をもって社長室に入ってきた。
加平は借用書を手に取って一瞥すると、すぐに時野の前に置いた。見てみろ、ということらしい。
「借用書」と書かれた書面には、申告者が阿久徳興業から50万円を借り受けるという内容が記されていた。
借用書に書かれた署名「山本翔太」と、昨日の相談票に書かれた申告者の自筆の氏名とを見比べてみる。
(確かに、字が似てる。同じ人物が書いたと考えてよさそう。ということは、あの金髪男、会社に借金しているのを労働基準監督署には黙っていたんだ……)
加平の方は、タイムカードや賃金台帳を確認している。
「賃金の締め日と支払日を教えてください」
「毎月末締め、翌月10日払いだ」
「支払方法は?」
「振込」
テーブルの上のタイムカードと賃金台帳を、時野も手に取った。
賃金台帳に記載された入社日は、「1月23日」とあるので、2月末まで働いて辞めたとなると、1か月ちょっとしか勤めていないことになる。
タイムカードの打刻がほとんど8時ー17時であるところをみると、それが定時のようだ。諸手当を含めて月給はおおよそ30万――。
(仕事内容はわかんないけど、これだけ見たらまあまあホワイトな気がするけど)
「未払いになっているのは、2月1日から2月末日までの1か月分の賃金。支払日は3月10日。金額は305,000円で、間違いありませんか」
「ああ。そうだ」
2人が書類を見ている間に、阿久徳社長はペットボトルのお茶を持ってこさせてのどを潤している。
借用書という証拠書類を示して、借金の事実を労働基準監督官に確認させたことで、阿久徳社長は少し落ち着いたようだ。
(借金は50万。確かに、給料を充当するしか回収の見込みはなさそう。それでも20万も未回収になっちゃうけど……)
加平を見ると、自分のブリーフケースから書類を取り出し、ボールペンでさらさらと何かを書き上げた。
背広の胸ポケットから印鑑を取り出して押印すると、阿久徳社長の前に置く。
「是正勧告書です」
「!」
(えっ!)
阿久徳社長と時野は、加平がテーブルの上に置いた書類を同時に凝視した。
「労働基準監督官 加平蒼佑」の名前で「是正勧告書」という名の指導文書が作成されている。
「労働基準法第24条及び最低賃金法第4条の違反です。是正期日は2週間後。それまでに、山本翔太さんに305,000円を全額支払ってください」
阿久徳社長は、再び顔を赤くして、わなわなと身体を震わせている。
「内容が理解できたら、こちらに受け取りの署名を」
加平が是正勧告書の下部にある「受領者職氏名」欄をトンと指さす。
バン!と大きな音がした。阿久徳社長がテーブルを叩いたのだ。
時野は身体をびくっとさせたが、加平は微動だにせず阿久徳社長と視線を合わせている。
「この借用書が見えないのか! 山本には50万貸してると言っただろう!」
加平は黙ったままだ。
より黒さが深まったように見える黒真珠は、しっかりと阿久徳社長の姿を見据えていた。
「山本の給料30万円でも到底足りない! こんなの子供でもわかるだろ! それともなにか? 労基は泥棒に追い銭をしろとでも言うのか!」
阿久徳社長と加平の視線が激突したまま、社長室はシーンと静まり返った。
自分の心臓のバクバクという音が2人に聞こえるのではないかと、時野は自分の胸のあたりを両手で押さえる。
「賃金の支払いと借金は、別問題です」
「なに?」
「支払期日に賃金を支払わなければ労働基準法違反。労働者が会社から借金をしていても、関係ありません」
「働いて返すという条件で、金を貸したんだぞ!」
「労働することを条件とする貸金と賃金の相殺は、労働基準法第17条で禁じています。労働を前提とせずただ金を貸すことまでは妨げませんが、あくまで賃金の支払いとは別物。貸した金が返済されようがされまいが、賃金の支払い義務は免れません」
「働いて返すっていうから雇ってやったんだ! 山本はその約束を反故にしてトンズラしてるんだぞ! 労基はそんな山本の肩を持つっていうのか! 俺は山本が金を返すまで絶対に払わないからな!」
「それなら、送検になるでしょうね」
「なんだと?」
阿久徳社長の眉が、ぴくりと動く。
「賃金が支払われなければ、労働者は処罰を求めるでしょう。つまり、告訴です。告訴となれば、労働基準監督署は社長であるあなたと法人を送検します」
(送検――?)
「もちろん、申告者である山本さんのお気持ち次第ですが、山本さんは賃金が支払われないまま引き下がるような人でしょうか」
阿久徳社長は、歯を食いしばるようにして加平を睨みつけている。
「労働基準法の構成上、違反は明白。送検されれば、罰金刑は確実でしょう。あなたと法人に前科が付くことになります。ああ、送検された事実は記者発表もしますから新聞にも載りますが、お仕事の方は大丈夫ですか?」
「き、貴様……!」
阿久徳社長は立ち上がり、加平にとびかからんばかりだ。
加平は加平で、阿久徳社長を凍てつくような目で睨み上げている。
(やっぱり、このままつかみ合って乱闘? いちしゅにーん!)
そのまま何分経っただろう。いや、実際には数秒だったのかもしれない。
立ち上がっていた阿久徳社長が、急にどさっとソファーに座り込んだ。
「山本は……同業者のところで勤めてたんだ。そこの社長に借金があって、キツい仕事させられてるって泣きついてきた」
阿久徳社長はうつむき、ぽつりぽつりと話し始めた。
「うちとしても人手が足りなかったから、返済に時間がかかっても長く勤めてもらえればって。それなのに、上司のLINEに『辞めます』の一言で、急に来なくなって……。心配していたのに労基に駆け込んだなんてよ……」
(この話が本当だとすると、申告者が言う「社長に何度も払ってくれるよう請求した」も嘘だったのか?)
激高していた姿が見る影もなく、がっくりとうなだれている阿久徳社長が気の毒で、時野は加平の方ちらりと見たが、加平はと言えばクールな表情を保ったままだ。
「結局、山本の借金を肩代わりして、泣き寝入りか……」
「そのことですが。貸した金の取り立てを諦めろとは言っていません」
「え?」
(え?)
阿久徳社長のみならず、時野も驚いて加平を見る。
加平の口元が少しだけニッと上がったように見えた。
§4
「是正勧告書で文書指導した後は、法違反状態が是正されたか確認。今回で言ったら、賃金が払われたことの確認な」
「はい」
時野は、説明を聴きながらメモを取っている。
申告処理の流れを、加平が説明してくれているのだ。
4月の役所にしては珍しく、今日の角宇乃労働基準監督署は平穏だった。
来客も電話も少なく、相談員たちも日頃の相談業務の取りまとめなど、書類仕事がはかどっているようだ。
「事業場からは、振込明細とか賃金台帳とか、法違反の是正が確認できる書類を提出させる」
加平は事務机の上にあるA4の紙を、トントンと指先で示した。
それは振込明細の写しで、阿久徳社長からファックスで受け取ったものだ。
時野が加平と阿久徳興業に行ってから3日後、未払賃金305,000円は全額金髪男に振り込まれた。
「それから申告者にも、賃金を受領したか確認することになるけど――」
阿久徳興業から戻ってきてすぐ、加平は申告者の山本に連絡をした。
賃金を支払うよう文書指導したことを伝えると共に、支払いがあったら加平に知らせるよう依頼したのだが――。
「あの申告者、まだ連絡つかないのか?」
いつの間にか、紙地一主任が時野と加平のそばに立っている。
阿久徳興業の申告事案の話をしているのが聞こえて、気になったようだ。
「はい。社長から賃金を支払ったと連絡を受けて以後、2週間にわたって毎日かけてますが、電話に出ません」
時野たちが阿久徳興業に行った日から、半月程が経過していた。
はあーと大きくため息をつきながら、紙地一主任は腕組みをした。
「受け取りましたって一言言ってくれれば、すぐ完結にできるのになー」
(加平さんはすぐに動いたのに、申告者は――)
「窓口にきた時は、『早く指導しろ』ってあんなに大声で騒ぎ立てたのに、支払われたら電話にも出ないなんて、なんだか……」
ここ数日思っていたことを、時野は思わず口にしていた。
紙地一主任が、時野の顔を覗き込む。
「申告者のこと、不誠実って思ってる?」
「……はい」
(まずかったかな)
時野が窺うように見ると、紙地一主任はふっと口元を緩めた。
「うん、そうだよな。それが普通の反応だよ。俺や加平だと、もう慣れちゃってるけどなー。喉元過ぎれば、じゃないけど、お金を受け取ったら本人の中では終わったことになっちゃうのか、まあよくあるんだ、申告者に連絡がつかなくなること。人には色々事情があるもんだしね」
「あの申告者に連絡できない事情なんて、あるわけないです」
加平がぶっきらぼうに言い放つ。
「だから、かーひーらー! まったくもー」
紙地一主任が苦笑しながら加平の背中をポンとたたいた。
「まあ、この申告はもう完結にしよう。『申告者に複数回にわたって架電するも応答なし。事業場が提出した振込明細により法違反の是正が確認できたため、本件完結としたい』ってことで処理経過を締めくくって、決裁回しといて」
紙地一主任がそう指示を出し、加平が頷いたその時だった。
「オイコラ、加平ってやつ出てこいや!」
穏やかだった事務室内に、突如怒声が響き渡った。
受付に身を乗り出すようにして、男が騒いでいる。見覚えのある野球帽からはみ出ているのは――。
(金髪男!)
阿久徳興業の申告者の山本翔太だ。
(賃金は支払われたはずだし、加平さんがあれだけ電話しても出なかったのに、今さらなんで……?)
「か、加平ですね、かしこまりました。お名前を伺っても……」
受付に出ているのは渡辺相談員だった。対応する声が少し上ずっている。
「は? いいから早く加平を呼んでこい!」
金髪男は受付の机をバン!と叩いた。
穏やかだった事務室の空気は一転、緊迫感に包まれた。
他部署の職員たちも、何事かと立ち上がってこちらの様子を窺い、ざわついている。
「あ、あの人!」
紙地一主任が金髪男に気がついて前に出ようとしたが、加平が紙地一主任の前にさっと腕を出し、進路を阻むと――。
「一主任、自分が行きます」
「だけど、加平――」
紙地一主任の言葉をそれ以上聞かず、加平はずんずんと大股で受付に向かって進む。
時野も思わず加平を追いかける。
「加平は自分ですが」
加平が金髪男の前に立つ。
「!」
金髪男は加平の顔を見て、あっ、という表情を浮かべたかと思うと、みるみる目をつり上げていく。
「お前が加平か、どおりでくそったれた状況になるはずだぜ」
金髪男は手に持っていた封筒から書類を取り出すと、バシッと受付の机に叩きつけた。
「オイ、これはどういうことだよ!」
時野は加平の斜め後ろから、金髪男が叩きつけた書類を覗き込んだ。
(請求書?)
請求書の宛名は「山本翔太」、請求者は「阿久徳興業株式会社」となっており、阿久徳社長の氏名と押印もある。
「借金を返さないなら、訴訟を起こして財産を差し押さえるって、これなんだよ!」
(差し押さえ? もしかして、あの時の話の通りに阿久徳社長が――)
時野が斜め後ろから加平を見上げると、加平は黙って凍てつくような視線を金髪男に向けている。
「お前の入れ知恵だってことはバレてんだからな! 社長はなぁ、あんたからアドバイスされたって言ってんだ! 加平てめぇふざけてんじゃねーぞ!」
時野と加平が阿久徳興業を訪ねたあの日――是正勧告書を阿久徳社長に交付した後、金髪男の借金については民事で争うよう加平が提案したのだ。
『貸した金と賃金は相殺できませんが、民事で争う分には問題ありません。山本に請求書を送りつけてください。払わなければ、差し押さえで強制的に回収するんです。60万円以下だから、少額訴訟が使えます。審理は1日で終わるし、費用も1万円足らずで済む』
時野は、加平の話を聞いている時の、阿久徳社長の顔を思い出していた。
(阿久徳社長、すごく驚いていたなー。まさか、労働者の味方の労働基準監督官が、そんな提案をするなんて……)
『あんなやつに泣き寝入りする必要はありません。売られた喧嘩です。徹底的にやり返しましょう。貸した金を返してもらう権利のある阿久徳さん、あなたにしかできないことです』
そう言いきった加平の顔を、阿久徳社長は真剣な表情で見つめていた。
(金髪男に財産がなければ差し押さえるものもなくて骨折り損にはなるけど。ただ、正式な請求書や訴状が送りつけられてきたら、金髪男に対して相当な圧をかけることができるだろう)
「労基は労働者の味方だろうがよ! 労働者が不利になるような情報流して社長の味方するなんて、てめぇどういうアタマしてんだ!」
署内にいるほぼ全員の視線が、金髪男と加平に注がれていた。
誰もが固唾を飲んで、この後の展開がどうなるのか見つめている。
「オイ、なんとか言えよコラ、この税金泥棒が!」
金髪男の右手が、加平の胸倉をつかもうと伸びてきたが――。
「!」
加平が金髪男の右腕をつかんだ。
金髪男は一瞬驚き、すぐに右腕を引っ込めようとするも、加平は離そうとしない。
「労働基準監督官は、労働者の味方なんかじゃない!」
(えっ……?)
ここまで、捲し立てる金髪男に冷たい視線を向けているだけだった加平が急に口を開いたので、誰もが驚く。
もちろん時野も驚くと同時に、加平の言葉の真意を読み取れないでいる。
(労働者の味方じゃない……?)
「ましてや、社長や事業場の味方でもない」
「なんだと?」
金髪男も、訝しげに加平をみていた。
「労働基準監督官は、法の前に中立だ。労働者だろうと社長だろうと、法を犯すやつは許しておかない」
加平は金髪男をつかむ手にみしみしと力をいれた。
「!」
金髪男は痛みと動揺で顔を歪ませる。
「阿久徳興業は法に則って支払義務を果たしたんだ。今度はあんたがきっちり債務を返済する番だろ! 義務を果たさないくせに、権利を振りかざしてんじゃねえ!」
加平が勢いをつけて金髪男の腕を押し離したので、金髪男はバランスを崩しながら後ろに下がった。
「阿久徳さんは本気だ。さっさと金策にいくんだな!」
金髪男は、顔面を強ばらせながら、よろよろと事務室の出口へ向かう。
金髪男が庁舎から出ていったのを見届け、加平が振り向いたのを合図に、みんながわっと喋りだし、称賛だったり労いだったり、近くから遠くから口々に加平に声がかけられた。
加平はぶっきらぼうに周りに会釈しながら一方面の島に戻ってくると、一主任の前に立つ。
「今度こそカタをつけました。阿久徳興業の申告は完結です」
加平の言葉に、紙地一主任は大きく息を吐き出した。
「かーひーらー! まったく、ハラハラさせんなよおー。心臓壊れるかと思った。絶対寿命縮んだよー」
紙地一主任が加平の肩に手を置きながら脱力している。
「ねぇ、俺さっきより禿げてない? いつも部下が心配かけるからさあー。やっぱり禿げたよねぇ? ねぇ時野くんてば」
紙地一主任が時野におもしろく言ってくるので、時野はつい笑いだしてしまう。
「すみませんって、一主任……」
加平は居心地悪そうな表情で、ぼそぼそと謝っている。
見守ってくれた一主任には頭が上がらないようだ。
(なんか、いいな。僕もがんばって、早く一方面の一員になるぞ!)
ほっこりした気持ちやらやる気やら、色々な温かい気持ちが湧いてくるのを感じ、時野は決意を新たにしたのだった。
ー次話に続くー
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