労働基準監督官のお仕事小説「労働Gメンは突然に」電子書籍化!

労働Gメンは突然に:第7話「人材紹介」

労働基準監督官のお仕事小説、労働ジーメンは突然に お仕事小説

登場人物

時野 龍牙ときの りゅうが 23歳
新人の労働基準監督官。角宇乃かくうの労働基準監督署・第一方面所属。老若男女、誰とでも話すのが得意。

加平 蒼佑かひら そうすけ 30歳
6年目の労働基準監督官。第一方面所属。時野の直属の先輩。あだ名は「冷徹王子」。同期の麗花に2度プロポーズするも1.5回断られた。

有働 伊織うどう いおり 37歳
15年目の労働基準監督官。第三方面主任。労働基準監督官史上最もイケメン。バツイチ。部下の夏沢にほの字。

夏沢 百萌なつさわ ももえ 28歳
7年目の労働基準監督官。第三方面所属。人からの好意にも悪意にも疎い。年上の後輩の加平が苦手だったが気になる存在に。

高光 漣たかみつ れん 45歳
22年目の労働基準監督官。安全衛生課長。おしゃべり好き。意外と常識人。美人の先輩を追いかけて監督官に。妻は関西出身。

香坂 博人こうさか ひろと 45歳
20年目の労働基準監督官。本省組。K労働局の労働基準部長。紙地一主任の同期だがあまり仲は良くない?

黒瀬 麗花くろせ れいか 27歳
6年目の労働基準監督官。労働局の監督課所属。父は監督官OB。加平の同期。元佐賀巳職安に無断で侵入して謹慎中。

角宇乃労働基準監督署 配置図(1階)

本編:第7話「人材紹介」

§1

 土曜日の午後――加平はカフェで麗花を待っていた。

 麗花が店内に入ってきたのが見えると、加平の漆黒の眼球はその姿に釘付けだ。

 麗花はカウンターで注文を終えると、加平のいるテーブルのそばに立った。

「麗花……」

 加平は立ち上がって麗花と向き合った。

「加平くん……」

 2人が見つめ合っていると――ふたりの世界に突然にょきっと何かが突き出された。

「すみませーん、僕もいますけど」

 時野が手をぶんぶんと振って、自らの存在をアピールする。

「ああ……」

(加平さん絶対『ああ、いたの』って言おうとしたよ! 麗花さんとこうして会えることになったのは僕のおかげなんですけど?)

 時野が依頼して香坂基準部長から麗花に連絡をとってもらい、こうして麗花と会えることになったのだ。

 基準部長預かりで自宅謹慎しているなら、基準部長の連絡には応じるに違いない――時野の読み通りになったのだが、加平からは「お前、基準部長を使い倒してるな」と言われてしまった。

(麗花さんから不法侵入の動機を聞き出せと言ったのは基準部長だし、面談のセッティングぐらい頼んでもいいかと)

 加平は麗花を座らせると、自らは麗花の隣に腰かけた。

 時野は正面に座った麗花を見た。

 色白の肌に大きな瞳、鼻筋と口元は主張しすぎず整っており、女性らしい丸みを帯びた輪郭の周りにツヤのある長い黒髪がさらりと垂れ下がり……要するに、噂通りの美人だ。

(麗しい花……僕と違って名前負けしてない)

 加平はというと、まるで時野などいないかのように、隣に座る麗花の方を見つめている。

『あの冷徹王子までご執心とはね』

(若月さんの言った「ご執心」って表現、まさにその通りだ)

「加平くん、ごめんなさい。私……」

「基準部長から全部聞いた。心配しなくていい。あ、こいつは時野って言って、角宇乃署の新監。こう見えてすげー頭良くて。俺たちに協力したいって」

 時野は2人のやり取りを聞いていたが――。

(加平さんいつもと違うー! シラフで甘々モードになってない? 冷徹キャラはどこ行ったんですかー、加平さーん!)

「ごほんごほん。改めまして、時野と申します。加平さんが麗花さんのことを心配し過ぎて仕事が手につかないと角宇乃署的にも困りますので、麗花さんの心配事解決のお手伝いをさせてください!」

「時野お前なあ……調子乗んなよ」

 麗花がくすくすと笑った。

「お休みの日に時間をとってもらってごめんなさい。時野さんのことは、香坂部長からも聞きました」

 麗花が艶のある瞳で時野をまっすぐに見たので、時野はドキリとした。

(これは……冷徹王子も骨抜きになるはずだ)

「正直言って、自分でもこれからどうしたらいいのかわからなくて……」

 伏目がちにそう言った麗花を、加平はじっと見つめた。

「大丈夫。俺に全部話して」

(だから、僕もいますってばー!)

 若干ふたりの世界気味ではあったが……麗花は父の自殺の真相を追いかけてきたこれまでの出来事について、加平と時野に説明した。

「なるほど……。それで、最終的に元佐賀巳職安に侵入することになったわけですか」

(その時点で僕も一味に加わっていたら、そんな危ない橋を渡らずとも他の方法を考えたのにな)

 こう見えて麗花は、思いつめると突っ走ってしまうタイプらしい。

「それから、名前なんでしたっけ、加平さんにけん制をかけてきた、コンサルタントの……」

「……柏倉かしくらだろ」

 余計なことを言うな、とばかりに加平は時野を睨んだ。

「そうそう、柏倉さんという方は、一体どういう? 元社労士と聞きましたが」

「柏倉さんが元社労士? それは私も知りませんでした。母は祖父母から受け継いだ会社の代表をしているんですけど、病気でほとんど会社のことをできないので、実質柏倉さんが運営してくれています。と言っても先祖代々の資産を管理するための会社で、営業活動とかはないんですけど」

(資産を管理するための会社って……かなりの資産家?) 

「柏倉さんはどのような経緯でお母様の会社に?」

「それはよく知らないんです。私がY局に赴任している間に柏倉さんが母の会社の顧問を務めることになったみたいで」

(ふーむ……なんかそれだけじゃないような気がするんだけどな)

「お母様の会社には、税理士さんもついてますか?」

「えっ税理士? いえ……柏倉さんしかいないはずですけど」

 加平が、税理士ってなんだ? といぶかしげな表情をしている。 

「それから、陸川りくがわ製作所の送検書類の資料、後で共有してもらえませんか。そーだ、3人のグループライン作っていいですか?」

 LINEの交換を終えると、時野は席を立った。

「じゃあ僕はこれで……」

 加平に気を利かせて2人を残すと、時野は1人になって麗花の父の死について考察してみることにした。

「けん制ってなに?」

「……」

 麗花に尋ねられて、加平は目をそらした。

「私は全部話したよ。加平くんは話してくれないの?」

「……柏倉って、麗花となんかあるの? 麗花に近づくなって言いにきたけど」

 麗花はやっぱりという様子でため息をついた。

「柏倉さんとは……母が入院してるから、会社のことでやり取りをしてる」

「それだけじゃないよな?」

 麗花はカフェオレが入ったカップを手に取った。

「実は、結婚を前提とした交際を申し込まれて……」

 加平が、バッと麗花の方を見た。

「あ、もちろん断ったよ」

 加平がホッとした表情で、椅子の背もたれに背中を預けた。

「加平くん……この間はごめんなさい。指輪、用意してくれたのに。ずっと謝りたくて……」

「……」

「連絡も返さなくてごめんなさい。加平くんのこと、巻き込みたくなかった。でも、香坂部長から加平くんが私のことを聞きにきたって聞いて……もう見放されても仕方ないぐらいなのに、うれしくて……」

 麗花は自分の身体を加平の方に向けた。

「父のこと。ちゃんと整理がついたら、今度こそ加平くんとの結婚に向き合いたい。そのときは……あの指輪を受けとる資格、まだあるかな?」

 加平は背もたれにもたれて正面を向いたままだ。

「あの指輪なら、返品した」

「ええっ!」

「麗花が受け取らないなら、持っててもしょうがねえし」

 加平が麗花の方を見ると、ショックで大きく口を開けて固まっている。

 加平はぷはっと吹き出すと、笑いだした。

「なんて顔してんだよ。内側にメッセージ彫ってんのに返品なんてできるわけねえだろ」

「ひっどーい! 加平くん真顔だからほんとに返品したと思ったし!」

 まだ笑う加平を麗花はポカポカとたたいた。

「ところで、内側にメッセージって……なんて彫ってあるの?」

「それは……教えない。早く受け取って自分で確かめれば」

 加平は横目で麗花を見ると、ニッと笑った。

「な、なにそれー! いじわる!」

 麗花は再び加平をポカポカとたたいた。

 そんな2人を窓の外から見ているのは――。

(いちゃついてる……)

「あれ? 時野じゃん」

 急に声をかけられて、時野はびくりと飛び上がるほど驚いた。

「な、夏沢さん!」

 振り返ると、パーカーにジーンズというラフな格好の夏沢が立っていた。

「なに覗いてんの?」

「いや、えーと、その」

(冷徹王子がデレついてるところなんて見せられない!)

「夏沢さんこそ、どうしてここに?」

「え、だって私角宇乃市民だし。ちょっと買い出しに出てきただけだけど。あれ? 時野も角宇乃市に住んでんだっけ?」

「そそそ、そーなんですよおー! 奇遇ですね、僕も買い出しに」

「へー。角宇乃市のどこ?」

 2人は自然と角宇乃駅方面へ歩きだし、カフェから離れることに成功して時野はホッとした。

(夏沢さん、あの一件以来、加平さんのことちょっと好きかもしれないからな)

明多町あきたまちです」

「えっ。めっちゃ飲み屋街じゃん。それって実家?」

「ええ、まあ……」

(やっと寺林さんのハニートラップから立ち直ったっぽいから、あまり波風を立てないように……。そうだ、寺林さんと言えば……)

§2

 新井湊斗あらいみなとはベッドから起き上がると、身なりを整え始めた。

 税理士になって5年――新井はK県では大手の税理士事務所に勤め、角宇乃市内の法人や個人の事業主を中心に顧問を担当している。

 税理士と言っても、事業主と話すのは税務のことばかりではない。

 むしろ、そういうことよりも雑談の方が多いと新井は感じていた。

 経営者は孤独だ。従業員には言えない弱音や愚痴を言う相手として、税理士はちょうどいいのかもしれない。

(守秘義務はあるけど、つい彼に求められるままに話してしまった。雑談レベルの話なら問題はないと思っていたけど、最近立て続けに起こった顧問先のトラブルは、まさか……)

 新井は鏡を見ながらネクタイを締めると、部屋を出る前にベッドに近づいた。

 そこには、「彼」がぐっすり眠っていた。

(この間一緒にいたロングヘアの女は誰? 湊斗だけだって言ってくれたのは嘘? 信じていいんだよね……?)

 新井は「彼」の素肌の肩に口づけをすると、静かに部屋を出ていった。

「何とかしてもらえませんか、お願いしますよ!」

「ですから、そういうことはハローワークに……」

「ハローワークは労働基準監督署に行けって言ったんですよ?」

 年配の男性相談者が今野相談員と話をしているが、どうも噛み合わないのか徐々に相談者の声が大きくなっている。

「どうされました?」

 在庁当番の夏沢が今野相談員の横についた。

「おたくは?」

「夏沢と申します。申し訳ありませんが今野は5時で勤務が終了ですので、私が代わらせていただきます」

 労働基準監督署の閉庁時刻は夕方5時15分だが、相談員の勤務は5時までだ。

 対応が長引いて5時を過ぎそうな時は、在庁当番が引き継ぐことになっている。

「そう、まあいいけど、じゃあ名刺もらえる?」

 相談者が名刺を出してきたので、夏沢も自席から名刺をもってきて相談者に渡した。

「なつさわ……ひゃく? おたくの名前なんて読むの?」

「……百萌ももえです」

「えっ、ももえちゃん? いい名前だねえー! 私たちの世代にとってはときめく名前だよ。知ってる? 歌手の山口百恵って」

「……」

 ちゃん付けで呼ばれて引いているのが夏沢の背中越しでもわかる。

 時野は「予定表」と書かれたホワイトボードを見た。有働三主任の欄は「定監」と記載されている。

(三主任は監督に出て外出中か……)

 時野は夏沢に近づくと、さりげなく隣に座り、相談に加わった。

 相談者の男――机上に置かれた名刺によると「アマリリスこども園 園長 滝沢」となっている――は、夏沢に対する最初の怪訝そうな表情とはうって変わって前のめりで話し始めた。

「とにかく、労働者の退職を止めさせてほしいんだよ! 今年に入ってこれで3人目だよ」

「はあ……」

「うちは働きやすい保育園のはずだし、本人も最初の2週間ぐらいは楽しそうに働いてるんだよ? それなのに、3週間目ぐらいで急に辞めるって」

 滝沢園長の相談内容は、この時点ですでに労働基準監督署では対応できない内容だ。

(だから今野さんと嚙み合っていなかったのか。あとは、どうやって諦めて帰ってもらうか、だけど)

 だが、それから30分経過しても、滝沢園長は諦めなかった。

「ですから、退職というのは労働者本人の意思ですから、誰にも止めることはできませんので……」

「じゃあなんでそんな意思になっちゃうわけ? どうしても腑に落ちないんだよ。うちの園に辞めなきゃいけないどんな問題があるのか教えてよ、ももえちゃん!」

「どんな問題って言われましても……労働基準監督署では、労務管理に関することしかアドバイスできませんので」

「じゃあ、労務管理に関することでいいから! うちに来てアドバイスしてよ!」

(粘り強すぎる。そろそろ帰ってほしいー!)

 その時、時野の視界の端に、外出から戻ってきた有働三主任の姿が見えた。

(あっ!)

 時野が有働三主任に目配せすると、有働の方もなにやらトラブルになっていることを察した様子だ。

「ですから……それは致しかねます」

「なんで? 労務管理ならアドバイスできるって言ったよね!」

「ですが……」

 その時――突然、滝沢園長が夏沢の右手を両手で握った。

「……!」

「お願いだよ、ももえちゃん! 本当に困り果ててるんだ」

「じゃあ、支援班で対応しようか、夏沢さん」

 そう言いながら後方から有働三主任が近づくと、滝沢園長の手をガシッとつかんで夏沢の手から引き離した。

「おたく、どなた?」

 滝沢園長は明らかに不機嫌そうだ。

「夏沢の上司です。労務管理の支援には後日伺います。すでに閉庁時刻を過ぎていますから、今日のところはお引き取り願えますか」

「……もうこんな時間か。わかったよ、もう帰るけど、ももえちゃんが来てよね、絶対だよ」

 じゃあよろしく、と言って滝沢園長は帰っていった。

「対応おつかれ。てゆーか、あんなセクハラまがいのことするようなジジイがいるから、保育士が辞めんじゃねえの」

 いつの間にか加平がそばに来てズバッと指摘した。

(確かに……)

 夏沢を見ると、少し青ざめているように見える。

「夏沢さん、顔色悪いけど大丈夫?」

 有働三主任も夏沢の様子に気が付いたようだ。

「少し気持ち悪くて……仕事なのにすみません」

「ううん、気持ち悪くなってもおかしくないよ! 心配しないで、支援には俺が行ってくるから」

 三主任の提案に対して夏沢は首を振った。

「いえ、私が行ってきます。でも……時野、一緒にいいかな」

 夏沢が懇願するような上目遣いで時野を見た。

(お。ちょっと弱ってる夏沢さん、かわいいかも……って、だめだ、発想が不謹慎。それに……)

「もちろん、僕は構いませんけど……」

 有働三主任をちらりと見ると、時野に対して妬みとも羨望ともつかない眼差しを向けている。

(ああぁ、やっぱり)

「えーと、今の園長相当ねちっこかったですし、役職者も一緒がいいんじゃないかなーと。なので、三主任と3人でいきましょーよ!」

 有働三主任の表情がパッと明るくなる。

「だよね! うん、俺もそれがいいと思う!」

「は? 3人で行くほどかよ……もごッ」

 加平がまっとうなツッコミを入れてきたので、時野は加平の口を押さえて一方面の方に引っ張って行ったのだった。

 1週間後。時野、夏沢、有働三主任の3人は、アマリリスこども園に来ていた。

  • 事業場名:アマリリスこども園
  • 所在地:角宇乃市中央区〇〇町〇〇-〇
  • 業種:社会福祉施設
  • 労働者数:45名

 夏沢が中心となって、労務管理上の問題点の確認やアドバイスをしているが、滝沢園長の正面には有働三主任が座り、先日のようなセクハラ行為が起こらないよう防御態勢を敷いている。

 有働三主任がしっかりガードしているので、時野は自らの研修として労務管理上の問題点探しの方に集中することができた。

(ちらほら問題点があって、それは夏沢さんが指摘したけれど、正直言って入社して1か月もたたないうちに辞めようと思うような問題点は見当たらない。そうなると、やっぱり滝沢園長のセクハラが理由なんじゃ……)

 退職してしまったという保育士の労働者名簿が机上にあるのが見えた。

 労働者名簿とは、労働者の氏名、生年月日、履歴などについて労働者ごとに作成する名簿で、労働基準法に定められている。

 時野が何の気なしに見てみると、履歴欄に「COLORFULスタッフより紹介」と記載されているのが見えた。

 気になって、今年に入って退職したという3名の保育士の労働者名簿を全員確認してみたところ、いずれも同じ記載がある。

「あのー、履歴欄の『COLORFULスタッフより紹介』というのは? 相次いで退職されたという3人が3人とも同じ記載がありますが」

「ああ、『COLORFULスタッフ』っていう人材派遣会社があってね。そこからの『紹介予定派遣』っていうの? 3人とも、最初はそれで来てもらったのよ」

 紹介予定派遣とは、派遣先に直接雇用されることを前提とした労働者派遣だ。

 派遣先と派遣労働者が合意すれば直接雇用となり、試用期間的に派遣期間を利用できることは労使双方にとってメリットと言える。

「だから、入って1か月以内に辞めたって言ったけど、本当はその前に1か月派遣で来てもらってるわけ。それで気に入ってもらって入社したはずなのに、なおさら辞めるわけがわかんないのよ」

(なるほど……。それなら、辞めるなんておかしいと園長が騒いでいたのも頷けるな)

「それに、紹介料がめちゃくちゃ高くてね。直接雇用が成立したら、年収の30パーセントを紹介料として取られるんだから」

(年収300万円なら紹介料は90万円。確かになかなかの金額だ)

「1か月以内に辞めっちゃったら紹介料は半額返金してくれるんだけど、それでも相当な痛手だよ」

(紹介料が90万円だとして、半額返してもらっても45万円の紹介料が無駄になるのか……)

「そんなに高い紹介会社、なんで取引してるんです?」

「それはお兄ちゃんの言うとおりなんだけどよ。とにかく保育士は人手不足なの。普通に求人出しても一人も面接に来やしない。求人広告代をどぶに捨てるようなもん。だけど、『COLORFULスタッフ』はどんどん紹介してくれるのよ。だからこっちもつい頼んじゃうんだよなぁ」

(ふむ。保育士を集める能力が強みの人材派遣会社なわけか)

 時野と滝沢園長がほぼ雑談なやり取りをしているのを、夏沢と有働三主任がぽかんとした様子で見ている。

「あっ、すみません、関係ない話しちゃって。疑問に思ったので、つい……」

 時野が頭をかきながらうつむくと、労働者名簿の後ろに表彰状のような書類が添付されているのが目に入った。

「これは……」

「ああ、それは『保育士証』の写しだよ。保育士の資格がないと、紹介してもらう意味がないからね。保育士の資格がある人は、保育士登録をすると、都道府県知事の名義で『保育士証』が発行されるから、確認のために写しを出してもらってんの」

 時野が保育士証を見てみると、保育士の氏名と生年月日、登録番号、交付日などと共に、当時のK県知事の氏名が印字されている。

「へえー、『保育士証』っていうのがあるんですねー……っていうか、また関係ない話を、すみません……」

 途中でまた夏沢たちの視線に気が付き、時野は赤くなった。

(保育士証って初めて見たけど、なんか違和感があったような……?)

§3

「時野、ありがとね」

 アマリリスこども園から帰庁し、時野が自席で外出の片づけをしていると、夏沢がペットボトルのジュースを持って現れた。

「えっ? 何がですか」

「今日、アマリリスこども園についてきてくれて」

「それは、三主任だって……」

「そうだけど、そもそも初めて園長が窓口に来た日、園長のヘンな雰囲気感じ取って、私が一人対応にならないように隣に座ってくれたでしょ。そのあと三主任が加わる流れにしたのだって」

「はあ、まあ……」

「正直、ありがたかった」

 そう言って、夏沢は持っていたペットボトルを時野の机に置いた。

「いいですよ! そんな……」

「『百萌』って名前」

「え?」

「今回が初めてじゃないの。年配の男性が『ももえ』って名前に反応して、やたらベタベタしてくる感じ……」

(ああ、滝沢園長も、山口百恵がどうとか言ってたな。昔好きだったアイドルの名前に反応してたのか)

「この間の園長も、同じタイプだってすぐにわかったけど、それぐらいで助けを呼ぶのも半人前な気がして。だから、時野が来てくれてほんと助かったの」

「それなのにセクハラを阻止できなくて、役立たずですみません!」

 時野は元気に謝った。

「ははは。前から思ってたけど、時野は話しやすいね。コミュ力高い。さすが、冷徹王子の後輩やれてるだけのことある」

(そういう夏沢さんは、いつものツンケンした様子とは打って変わってしおらしくて、なんというか……。そっか、こーゆーツンデレなところが三主任のハートを打ち抜……)

 時野がハッとして三主任席を見ると、恨めしそうな顔で凝視してくる有働三主任と目が合ってしまった。

(や、やばい。これ以上は三主任に呪われる)

「えーと、あの、夏沢さん。ジュースもらった上に1つお願いがあるんですけど、高階家具の寺林さんの名刺って、まだ持ってます?」

「えっ、寺林さんの? それはもちろんまだ保管してるけど、どうして?」

「ちょっと寺林さんに確認したいことがあって。僕がもらった名刺はなくしちゃったので、貸してもらえませんか」

「いいけど……」

「ええ。では、どうもありがとうございました」

 時野は、高階家具の寺林との電話を終えて、受話器を置いた。

 時野が電話をかけると、寺林は夏沢以上に驚いていた。

『えっ、本当に時野さん? どうしたんですか、私に用だなんて』

 時野が寺林から聞きたかったのは、退職金をちゃんと支払ったかでも、夏沢からつけられたキスマークで婚約者と一波乱起きたかでもない。

 先日角宇乃駅前で寺林と遭遇した際に、寺林の車の助手席から降りた男性の素性だ。

『ああ、あの方は弊社の顧問税理士の新井先生ですけど。時野さんもお知合いですか?』

 時野が新井税理士と遭遇したのは、角宇乃駅前だけじゃない。

『え? 退職金のことですか? ああ、話したかもしれませんね。退職金を請求されたとき、かなりの金額になることがわかって、確か新井先生にも会計処理上の相談をしたと思いますけど……』

 天天テンテンフーズの玄関で総務課長と話していた、細身のスーツがよく似合っていた男も……。

『えっ! どうして時野さんがそのことを知っているんですか。”アール“と名乗る人物から不審なメールが届いたこと』

 ムラサキ工業の玄関で立花紫たちばなゆかりが送り出していた、前髪が長めで両サイドを刈り上げた髪型のイケメンも……。

『あの後社長も、どうかしてたって反省していました。そんな得体のしれないメールにそそのかされて、監督署の就業規則を処分しようと考えるなんて……その節は、本当に申し訳ありませんでした』

 時野は、事務室が騒々しいのに、なぜか集中して考えることができている自分に気がついた。

(やっと見つけた――”R”につながる人物を)

 時野が、名前負けしない鋭い表情で考え込んでいると――。

「……のさん、時野さん!」

「わあっ!」

 声をかけてきたのは渡辺相談員だ。

「時野さんたら、どうしたんですか? 怖い顔して」

「あ、なんでもないんです、すみません……。どうしましたか」

 時野が頚の後ろを触りながら尋ねると、渡辺相談員が安全衛生課のカウンターを指さした。

「産業医の選任届をお持ちのお客様がいるんですけど、安衛課が無人島なんですよ。在庁当番の加平さんも窓口対応中で。時野さんにお願いできたりします?」

(無人島の安衛課……)

 確かに、安全衛生課の島を見ると誰も座っておらず、いつもはその辺で雑談をしている高光課長の姿すら見えない。

 安全衛生課にも相談員はいるのだが、他の届け出に対応中のようだ。

「わかりました、僕が出てみます」

(この間、高光課長から選任届の研修をしてもらったし、なんとか受理できるかな)

 産業医とは、労働安全衛生法に定められた職場の健康管理を担う役職のひとつで、労働者数が50人以上の事業場で選任が義務付けられている。

 また、選任した場合は、法定の選任届を管轄の労働基準監督署に提出する必要があるのだ。

 時野は安全衛生課の窓口に出ると、選任届の書類を預かり、形式的な不備がないか確認した。

(えっと、産業医の場合は、選任届と、医師免許証の写しと、産業医の講習修了証の写しの3点セットがいるんだったな)

 医師免許証は、A4横長の表彰状のような様式になっており、発行当時の厚生労働大臣の氏名が、大臣の直筆の字体で印字されている。

(「厚生労働大臣 ****」……この大臣は就任期間が短かったような。てことは、この大臣の医師免許証はレアものだな。……ん? 待てよ)

 時野は、厚生労働大臣の氏名の印字を凝視した。

(そっか、違和感はこれだったんだ……!)

「あのー、当社の産業医の医師免許証に、何か問題でも……?」

 選任届を持参した来庁者は、不安そうな表情で時野を見ている。

「あっ! すみません、違うんです。これで受理させていただきますねっ」

 時野は選任届と控えに受理印を押印し、控えを来庁者に返却した。

 受理した選任届を所定の場所に格納すると、時野は慌てて三主任席に向かった。

「三主任すみません! アマリリスこども園のことなんですけど!」

「ん? アマリリスこども園がどうしたの?」

「あの時見た保育士証がですね、あ……」

(まてよ。そっか、だから労働者はすぐに辞めるしかなかったんだ!)

『紹介料は半額返金してくれるんだけど、それでも相当な痛手だよ……』

『COLORFULスタッフはどんどん紹介してくれるのよ。だからこっちもつい頼んじゃうんだよなぁ……』

(滝沢園長が言っていたことって……そういうことか……!)

「あの、三主任は需給調整事業課にお知合いはいらっしゃいますか?」

「えっ、需給調整事業課? なんで? 保育士証の話はもういいの?」

 スッキリした表情の時野とは対照的に、有働三主任の頭の周りには、はてなマークがたくさん飛ぶばかりなのであった……。

§4

(アマリリスこども園からまた保育士の紹介依頼が入ったか。あのじいさんはほんとチョロいな)

 COLORFULスタッフの代表のつじは、35歳。大学を卒業して大手の派遣会社に入社し、10年勤めてから独立した。

 最初は製造業への派遣を中心にやっていたが、大手の派遣会社ほど派遣労働者を集められず、継続的に収益を上げることの難しさにへこたれそうになったこともあった。

 そこで目を付けたのが、人手不足に悩む社会福祉業界の紹介予定派遣だ。

 しかし、保育士や介護士だって、そうそう簡単に見つかるものではない。

 そんな時、1人の保育士を派遣労働者として登録したが、いつまで経っても保育士証の写しを提出してこないというトラブルが起こった。

(あの時は、早く派遣先に提出しなければならないのになかなか出してこないから肝を冷やしたが、あれがなければ今のやり方は思いつかなかった)

 辻がコーヒーでも飲もうかと席を立ったその時――来客を知らせるベルが事務所の入り口で鳴った。

「お待たせしました。ご用件を伺います」

 辻が入り口で出迎えると――30代と思われるやたらとイケメンの男と、地味な顔の大学生のような男、ツンケンしてそうな女の3人が立っていた。

 イケメンの男から差し出された名刺には――。

「角宇乃労働基準監督署 第三方面主任 有働……。え? 労基の方が当社にどのようなご用件で?」

 長く派遣会社に勤務していた辻は、労働基準監督署というものの存在についてよく知っているつもりだ。

「先日、アマリリスこども園で御社の話を伺いましてね」

「アマリリスこども園……ええ、取引させていただいてますが……それがなんでしょうか」

 有働という男の後ろから、大学生風の男が前に出てきた。

「単刀直入に申し上げますが、COLORFULスタッフさんは紹介料を詐取してますよね?」

「!」

(こいつ……!)

「詐取だなんて人聞きの悪い。あ、あれですか、当社から紹介した保育士がすぐに辞めてしまったことを言っているのでしょうか。確かに、紹介料をいただいたのにすぐに辞めてしまったことは申し訳なく思っていますけど、1か月以内ですから半額はお返ししていますよ」

 辻は、長年営業職として培ってきた対応力を発揮し、営業スマイルで顔面を整えて答えた。

「当社としては続けて勤務していただきたかったのですが、こればかりはご本人の意向ですから、無理やり退職を止めさせるわけにもいきませんし」

「いえ、これは紹介料の詐取です。紹介予定派遣で派遣労働者を1か月送り込み、直接契約に持ち込む。紹介料は年収の30パーセント。年収300万円の人なら90万円。かなり高額です。喉から手が出るほど人手不足の保育園業界の足元を見てますね」

(なんだ、この若造は……)

「直接雇用になった後はすぐに辞めさせて、紹介料の半額を返金する。つまり、45万円を返すことで善良な取引のように見せかけていますけど、結局辞める予定の人と直接契約させることで45万円を詐取しているんですよ!」

「は……? 辞める予定だなんてなんでわかるんだよ! いい加減なことを言うなら、労基の方でも許しませんよ!」

 大学生風の男は、鞄から書類を取り出すと辻の前に出した。

 辻が書類に目を向けると――。

(この保育士証は確か、先日アマリリスこども園に提出した……)

「保育士証には、保育士として登録した当時の県知事の氏名が印字されていますね」

「そうですよ。それが何か?」

 大学生風の男は、辻に突き付けていた保育士証の県知事の氏名を指さした。

「この公布日だと、この知事の任期満了間近に交付されたことになりますが……。ご存じありませんでしたか、この知事は持病で任期を半年残して辞職しているんです」

「……!」

「つまり、この公布日ならば後任の知事でなければおかしい。この知事の氏名はあり得ないんですよ」

 大学生風の男は、保育士証の写しをさらに辻の眼前に押し出してきた。

「誰かの保育士証を使って、公布日と保育士名を差し替えましたね?」

(保育士証の偽造に気づかれた……!)

「元々保育士ではない労働者を、偽造した保育士証を使って保育士だと偽り、アマリリスこども園に紹介した。いずれはバレますから、その前に早期に自己都合退職させて紹介料45万円を詐取する……それが手口ですね?」

 辻は、自分でも顔から血の気が引くのがわかった。

「な……な……だとしても、労基には関係ないだろ! 労働基準法違反があるっていうのか?」

 辻は、商売柄、労働基準法もある程度理解している。

(労基に取り締まる権限のあるポイントはないはずだ……とにかく今日はこいつらを追い出して……)

「辻さん」

「!」

 無駄にイケメンの男が突然辻の名前を呼んだ。

「確かに、労働基準監督署に取り締まれる点はありません。だけど、把握したからには県に通報させてもらいますよ。それから……」

 無駄にイケメンの男の後方から、ツンケンした女が前に出てきた。

「需給調整事業課の遠藤です」

(なに!? 需給調整事業課だと? それって労働局で派遣の許可を出している部署の……)

「随分悪どい事業をされているようね。労働者派遣事業の許可を受けているけど、この分じゃ適正に労働者派遣事業を運営されているか疑問ね。許可の取り消しも視野に査察に入らせてもらうわ」

「!」

(派遣許可の……取り消し……だと? そんなことになったら、うちの事業は全て……)

 辻は3人に見下ろされながら、その場にへなへなと座り込んだのだった……。

「遠藤さん、今日は付き合ってくれて本当にありがとう!」

「え、そんなあー、有働さんのお役に立ててうれしい!」

 帰りの官用車の中。有働三主任が運転なので、下っ端の時野は当然助手席に座ろうとしたのだが、「有働さんの隣がいい!」と遠藤が言って、時野は珍しく後部座席だ。

 保育士証の偽造から紹介料の詐取へと芋づる式に気がついた時野だったが、問題は、この悪事を労働基準監督署では取り締まることができないという点だった。

 そこで思い出したのが、労働者派遣事業の許可を労働局の需給調整事業課が担当しているということだ。

(有働三主任なら役職者だし、労働局にも顔が利くと思ったんだけど……)

 有働が需給調整事業課に相談したところ、複数名の女性職員が同行に立候補したらしい。

(役職者だから顔が利くというより、顔面偏差値の高さゆえに顔が利きすぎるぐらいに、利いた。イケメンって便利だな……)

 労働者派遣事業の取り消しをちらつかせてCOLORFULスタッフを成敗することを思いついたのだが、あの辻の様子を見ると、その目的は十分すぎるぐらい達成できたようだ。

「でも、いい機会だったわ。COLORFULスタッフについては以前から需給調整事業課に苦情が寄せられていたの。今回のことは課長にも報告してあるから、後日正式に調査に入ることになるわね」

(なるほど。詐取の対象はアマリリスこども園だけじゃなかったわけか……)

「いやー、ももえちゃん、本当にありがとう!」

 角宇乃労働基準監督署の事務室内に、アマリリスこども園の園長の上機嫌な声が響いた。

「いえ、私は別に……」

 突然押しかけてお礼をまくしたてる滝沢園長に、今日も夏沢は引き気味だ。

(時野と三主任もそばにいるのに、こちらしか見てこない。こういう感じ、ほんと苦手……)

「全く、COLORFULスタッフの野郎、頭にくるよ! 調子のいいこと言って、こっちを騙していたなんてな。まあ、これまで払った紹介料は全額返金してくれたんだけど、それだけじゃ気持ちが収まらないから訴えてやろうかとも思ってるんだけどね」

 夏沢は椅子に座らずに立ち話の姿勢を貫くことにした。

(わかったから、もう帰ってくれないかな。正直言って、私は最初に相談聞いただけだし)

「とにかく、騙し取られた紹介料が戻ってきたのは、ももえちゃんのおかげ! 本当に世話に……」

 滝沢園長の手が夏沢の手に向かって伸びてきたが――。

「いえいえ、そこまでお礼を言っていただけて、私たちとしてもがんばった甲斐がありました!」

 滝沢園長の右手が夏沢の手に届きそうだったところを、有働三主任が夏沢の手の前に自分の左手を出してブロックした。

 さらに、有働三主任は伸びてきた滝沢園長の右手を自らの右手で握って握手すると、女性なら気を失ってしまいそうなキラッキラのイケメンスマイルで笑いかけた。

「あ、ああ、どうも……」

 さすがの滝沢園長も、有働三主任の顔面偏差値の高さにちょっと赤くなっていたのは気のせいだろうか……。

 滝沢園長が帰っていったので、夏沢は有働三主任の方を見た。

「三主任、ありがとうございます」

「え、あ、ううん、全然!」

「ところで、あの……」

 夏沢が視線を落として自分の手の方を見ると、先ほど滝沢園長の手をブロックした有働三主任の左手が、夏沢の手に触れたままだった。

「あっ! ご、ごめん!」

 有働三主任がパッと手を離した。

「いえ……」

(あれ? 私、有働三主任と手が触れても嫌じゃなかった……?)

 夏沢は、赤面しながら天井を見ている有働三主任をまじまじと見つめた。

 それを少し離れた一方面から見ていたのは――。

「あれってセクハラじゃね?……もがッ」

 加平の指摘が聞こえないように、時野は慌てて加平の口をふさいだ。

「セクハラは、受け取り手がイヤと感じるかが重要なポイントですから、いいんです、そうじゃないみたいなんで!」

(三主任に、やっと春がくるかな?)

 時野はほんわかした気持ちで2人を見ていたが、次の瞬間、口をふさがれ続けて怒った加平にドカッと殴られ悶え苦しんだのだった……。

§5

(監督課付きとなっている黒瀬麗花の謹慎は今月も継続……)

 労働局の幹部クラスの会議の議事録を読んで、浩二は大きなため息をついた。

 議事録を関係者にメールで送信したのは、香坂基準部長だ。

 麗花が元佐賀巳職安に侵入したことを知った時、浩二は激しく動揺した。

(麗ちゃんは、陣平さんの死について調べているに違いない……)

 浩二は、自席に座ったまま両手で顔を覆った。

 時刻は午後7時。定時はとっくに過ぎているが、たまった決裁業務をしていたらこんな時間になってしまった。

 そろそろ帰ろうかとパソコンの電源を落とした時、浩二のスマートフォンが鳴動した。

(この番号は誰だろう? 知らない番号だ)

「……はい」

 電話に出ると、思ったよりも自分が低い声を出していることに浩二は驚いた。

『コージお兄さん……ですよね? お久しぶりです。麗花です』

「!」

 浩二は思わずスマートフォンを取り落とし、誤って通話を終了させてしまった。

(麗ちゃん……)

 床に落ちたスマートフォンを見つめながら、浩二はそのままその場に立ち尽くした――。

ー次話に続くー

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