労働Gメンは突然に season2:第5話「救出コードは61条」

労働基準監督官のお仕事小説、労働ジーメンは突然に、season2、第5話、救出コードは61条 お仕事小説
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4/18:第5話〈中編〉を公開しました!

登場人物

時野 龍牙 ときの りゅうが 23歳
新人の労働基準監督官。K労働局角宇乃かくうの労働基準監督署第一方面所属。監督官試験をトップの成績で合格。老若男女、誰とでも話すのが得意。

加平 蒼佑 かひら そうすけ 30歳
6年目の労働基準監督官。第一方面所属。時野の直属の先輩。あだ名は「冷徹王子」。同期の麗花にプロポーズするも返事を保留されている(season1・第6話)。

紙地 嵩史 かみじ たかふみ 43歳
20年目の労働基準監督官。第一方面主任。時野と加平の直属の上司。加平の過激な言動に心労が絶えない管理職。

高光 漣 たかみつ れん 45歳
22年目の労働基準監督官。安全衛生課長。おしゃべり好き。意外と常識人。美人の先輩を追いかけて監督官に。妻は関西出身。

夏沢 百萌 なつさわ ももえ 29歳
7年目の労働基準監督官。第三方面所属。人からの好意にも悪意にも疎い。加平が苦手だったが、ある事件(season1・第4話)をきっかけに気になる存在に?

伍堂 快人 ごどう かいと 25歳
新人の労働基準監督官。S労働局所属。時野の同期。「初めて会った気がしない!」という口説き文句が口癖で惚れっぽい性格。

上城 乃愛 かみしろ のあ 22歳
新人の労働基準監督官。I労働局所属。時野の同期。ミステリアスな雰囲気の美人で、同期のマドンナ。

山口 貴則 やまぐち たかのり 41歳
18年目の労働基準監督官。労働大学校の准教授。時野たち新人労働基準監督官の指導にあたる教官。

安西 葉月 あんざい はづき 17歳
高校2年生。通称『エイト』。ラーメン一期堂いちごどう角宇乃店のアルバイト。恩人である店長がパワハラを受けていると知り、時野と加平の協力者となった。知人女性が行方不明になり時野に相談するが……。

本編:第5話「救出コードは61条」

〈前編〉

§1

 8月の労働基準監督署の室温は高い。

 節電のため、空調の温度が28度設定になっているからだ。

 空調の風が当たりにくい窓の近くの席に座ると、日差しも相まって、空調が効いているとは言い難い温度の中で業務を行うことになる。

 角宇乃労働基準監督署のナンバー3である紙地一主任の席もご多分に漏れず暑く、汗を拭きながら別の役所からかかってきたらしい電話に対応していた。

「なるほどですね。……それは確かにうちにも関係するところです。……ええ、ええ」

(どこからの電話だろう)

 時野は気になって、紙地一主任の方をチラチラと見ていたのだが、先輩の加平は関心がなさそうに自席のパソコンに向かって作業をしている。

「……ええ、その際はどうぞよろしくお願いいたします」

(あっ、終わったみたい)

 時野が紙地一主任の席に近づくより早く、追い越した人物がいた。

「ちょっと何? 今の電話! 警察からなんの連絡だったわけ?」

 安全衛生課長の高光だ。

(警察?)

 警察から連絡が入るというと発生した労働災害についての確認が多く、最初は安全衛生課に取り次がれたらしいのだが、内容が労働基準法絡みだったので、紙地一主任に電話が回ってきたのだと言う。

「それがですね、夜のお店で18歳未満の女の子が働いているという情報提供でした」

 労働基準法第61条では、18歳未満の労働者の深夜業が禁止されている。

 深夜業――つまり、夜10時から翌朝5時までの時間の労働のことだ。

「えっ! どこの店?」

「えーと、明多町あきたまちにある『ラビエール』というお店だそうです。警察がマークしているらしい店で、内偵している中で18歳未満の子がいるとわかったみたいですね」

「内偵?!」

 ミーハーな高光課長の目が輝いた。

「いーねいーね! 警察は何でしょっ引こうとしてるわけ?」

「いや、そこまではさすがに教えてくれませんでしたけどね」

 紙地一主任が苦笑しながら答えている。

「まあ、合同で何か仕掛けるということになれば、うちからも相応の人数を出さないといけないでしょうけどね」

「警察とはそもそも数が違いますし、そんな無理しなくていいんじゃないですか」

 人手を出すことになると自らにも火の粉がかかると警戒したのか、ここまで我関せずの様子だった加平が珍しく口を出した。

「普段からやりすぎ監督官のお前が、それ言うかー? この間だって、無理くりパワハラ案件に手を出したらしいじゃん」

 高光課長が言っているのは、ラーメン一期堂いちごどうの事案だ。

(エリアマネージャーからのパワハラで休憩時間の改ざんに手を染めざるを得なくなった店長を救うために、ちょっと……いや、かなり無理したもんな)

 実は、ハラスメントについては、労働基準監督官に直接事業場を指導する権限はない。

 労働基準監督官は労働基準法を中心とした法の定めに則って事業場を指導する権限はあるわけだが、実はハラスメントを直接禁止する法律はないからだ。

 というのも、ハラスメントは判断がとても難しく、例えば「バカヤロウ!」と上司が言ったとしても、それが部下の人格を否定する発言であるケースもあれば、愛ある激励であるケースもあり、「バカヤロウと言ってはいけない」と一律に法律で取り締まるわけにはいかないからだ。

 そのため、ハラスメントに関しては、労働基準監督署の上位機関である労働局にある雇用環境・均等室が、助言やあっせんといった制度を通じて解決を支援することになっている。

(だけど、盗聴……じゃなかった、音声録音までしてパワハラの証拠をつきつけて、加平さんは店長を助けたんだよな)

 加平のやり方はどう考えても一般的とは言えないが、強引なやり方ながらも解決に導くそのスタイルには、皆が一目置いているとも言える。

(かく言う僕も、加平さんを尊敬しているけど……)

「無理くりって言えば、時野。お前、本当に例の人探しをする気か?」

「えっ! 人探し?? ちょっと時野くん、なによそれ!」

 高光課長の目がさらにキラキラと輝いた。

(これ絶対、自分への矛先を僕に向けたよなあ)

 加平のことを尊敬している時野だが、面倒なことを時野に向けがちなところは、納得がいかない。

「いや、ちょっとですね、この間の申告事案の協力者からの頼まれごとでして……」

 店長がパワハラを受けている音声の録音に協力してくれた、高校生アルバイトの安西葉月――通称『エイト』から、行方不明の知人について相談を受けているのだ。

『俺の……大切な人が、行方不明なんです! どうか探し出してください! 他に頼れる大人がいなくて……お願いです……』

 それまで、終始クールな様子のエイトが、泣きそうな表情で時野にすがってきたのだ。

 親しくしている年上の女性と、一週間前から連絡がつかないのだと。

『それは、安西くんの彼女・・さんってこと?』

 エイトは、その質問にこう答えた。

『いえ……恋人ではないです。ただ、間違いなく俺にとって大切な人です』

(身近な大人と言えば親御さんもいるのにわざわざ僕に相談してくるなんて、安西くんは訳アリな身の上なんだろう。労働基準監督官の業務とは無関係だと重々承知しているけど、何とかしてあげたい)

「パワハラならまだしも、人探しはどう転んだって、労働基準監督官の仕事じゃねえだろ」

(ぐっ! こんな時に限ってドストライクな正論言ってくるんだもんな、加平さんは)

「だ、だって……放っておけないじゃないですか」

「だからって、人探しに首を突っ込むのはどう考えても一線を越えてるだろ」

「そうだ、そうだー!」

 そう同調したのは、高光課長でも、紙地一主任でも、もちろん加平でもない。

「え?」

「ん?」

 振り向くと、そこに立っていたのは――。

「伍堂!?」

「オッス!」

「お前は悟空か! ていうか、伍堂お前いつからいたんだよ!」

 実は伍堂は最近、頻繁に角宇乃労働基準監督署にやってきていた。

 相談員達にもすっかり覚えられてしまい、同じ職員だと言うことで、顔パスで事務室内に入ってくる。

 その目的と言えば――。

「あっ、夏沢さん! おつかれさまです!」

「ああ、伍堂くんか。また来たの?」

 労働基準監督官試験の受験生だった際、先輩として対応してくれた夏沢に一目惚れしたと主張する伍堂は、頻繁に有休をとって角宇乃労働基準監督署にやってきては、夏沢を口説いているのだ。

 そしてその度に、定宿のごとく時野の家に泊まっていくのである。

(早く有休を使い果たしてしまえ!)

 時野は伍堂を睨みつけながら、心中で毒づいたのだった。

§2

「時野もお人よしだよな」

 時刻は金曜の定時を過ぎた。角宇乃駅に近づくにつれて、行き交う人の姿がどんどん増えていく。

 時野はこれから、駅前でエイトと会うことになっている。

「うるさいな。高校生が困っているんだ。警察では取り合ってくれなかったというし、それに――」

(複雑な身の上っていうところも、なんだか放っておけないんだよな)

「それに、なんだよ?」

「なんでもない! ていうか、伍堂、お前はもうS県に帰れよ。まだ電車間に合うだろ」

「何言ってんだよ、盟友の時野に会いに来たっていうのに。泊まるに決まってるだろ?」

「夏沢さんに会いたかっただけだろーがっ!」

「ハハハ」

 伍堂は明るい顔で楽しそうに笑った。

「いや、ハハハじゃなくて!」

「夏沢さんに会いたかったのは否定しないけど、時野に聞いてほしい話があったんだよ。俺が子供の頃誘拐された事件の件でさ」

「え?」

 時野は足を止めた。振り返ると、確かに伍堂はいつもより真剣な面持ちだ。

「実は、この間のビアガーデンがきっかけで、色々思い出してさ」

(確かに……。屋上の柵際まで行ったあの時の伍堂は、どっか別の時空を見ているようだったな)

 伍堂から両肩を力強くつかまれた感覚がよみがえる。

 その場にいた同期の上城乃愛と山口准教授も、不思議そうな視線を伍堂に向けていた。

「不思議なんだけどさ。労働基準監督官になってから、あの頃のことを時々思い出すようになったんだ。ほとんどは断片的な画像のような記憶だけど……」

(労働基準監督官になってから? 伍堂が誘拐されたのは、2歳の頃の出来事だ。それが、20年以上経った今になって思い出すということは、なにかきっかけが……)

「屋上の柵にギリギリまで近寄った時……急に、画像が動画になったんだ」

 伍堂が、何かを持ち上げるような動きを時野に見せた。

「俺を抱きかかえた大人の男が、追いかけられて柵を乗り越えて……。子供の俺の視界はアクロバットみたいにぐるんぐるんとなって、男が立った建物の端から下が見えた時、あまりの高さに――」

 さすがの伍堂もそこで言葉を詰まらせると、はあーと大きく息を吐いた。

「伍堂……」

「俺の高所恐怖症は、これが原因かな。時野、どう思う?」

(十中八九、そうだろう)

「僕は専門家じゃないからわからないけど、その可能性は高そうってことは言えるね」

 伍堂は、腕を組んで空を見上げた。

「だよなー。誘拐事件が原因だとしたら、トラウマっぽい感じで発症したわけだよな。高所恐怖症、治したいんだけどなー」

(伍堂……やっぱり、高所恐怖症を克服したいのか。労働基準監督官としても、できる仕事に制限ができかねないしな。僕もできる限り協力したいけど、どうすれば――)

 伍堂は、目を閉じて空を見上げたままだ。

「伍堂、その……あまり気に病むなよ。労働基準監督官の仕事は高所に上がることだけじゃないし……」

「そうしないと、乃愛ちゃんとの結婚式でゴンドラに乗って入場できないし」

「はあ?」

「いやだって、結婚式と言えばそうだろ?」

(ゴンドラで入場って、何十年前の流行りだよ!? しかも、さっきまで夏沢さんを口説いていたくせに、どの口が上城さんと結婚とか言ってんだ!)

 満面の笑みの伍堂を見て、時野はつっ込む気力を失ったのだった。

§3

「えっと、時野さん、こちらの方は……」

 正面に座るエイトが、ちらりと時野の隣を見た。

「初めまして、俺は時野の親友の伍堂といいます!」

 ゲホゲホッと時野はむせるように咳き込んだ。

 エイトと待ち合わせをしていた角宇乃駅前のカフェに、結局伍堂もついてきてしまったのだ。

「親友かどうかはおいといて……伍堂は僕の同期なんだ。身元は確かだから、詳しい事情を聞かせてくれるかな?」

「同期の方、ですか……」

 一応納得したらしいエイトは、事の顛末を話し始めた。

「メイさんと俺は、一期堂の客とスタッフとして出会いました。何度か店で顔を合わせるうちに親しくなって、外で会うようになりました」

「えぇぇっ! 年上のお姉さんと? マジで上がるな」

(ったく、うるさいな、また余計なこと言って!)

 時野は邪魔するなとばかりに隣の伍堂を睨みつけたが、伍堂は目を輝かせながら話の続きを待っている。

「いや、違うんです! メイさんとは彼氏彼女とかじゃなくて……。いつも食事をご馳走してくれました。男子高校生がガツガツ食べてるのを見るのが楽しいって……」

「ええー、でもさ、メシだけだったとしても、そんな何回も会ってたら、安西くんだって好きになっちゃわない?」

「……」

 エイトがうつむいたのを見て、時野は伍堂の腕をつかんだ。

「やめろ、伍堂。そういうのは、今はいいだろ。というか、お前はとりあえず話を聞け。ステイ!」

「わかったよ」

 ようやく伍堂が黙ったので、エイトが説明を続けた。

「一週間前のことです。俺はメイさんの自宅に行きました。2人で食事をしていると、男が部屋に入ってきたんです。メイさんは怒って男を追い出しましたが……」

「男?」

「はい。メイさんよりも随分年上の男です。俺は気になって……翌日メッセージを送りました。でも、今日になっても既読はつきません。何度か電話もかけましたけど、ずっと電源が入っていない状態で……」

「自宅には行ってみたの?」

「何度か行きました。ただ、メイさんのマンションはオートロックだから……インターホンを押してもただ応答がないだけで。それ以上の様子を窺うことはできませんでした」

 オートロックのマンションの場合、建物全体の入り口を住人に解除してもらわなければ中に入ることはできない。

「それって行方不明とは限らないんじゃないか? 言いにくいけど、安西くんと連絡をとりたくないだけとも考えられるよな?」

 伍堂が珍しくまともな指摘をした。

「確かに、可能性という意味ではそれもあり得ます。実際、警察の人はそう言って相手にしてくれませんでした」

 エイトは角宇乃警察署にも相談したらしい。しかし、知人という立場では捜索願を出せなかったのだと言う。

 それどころか、行方不明ということ自体、信ぴょう性がないと判断されたようだ。

「でも、俺は……メイさんが、何の理由もなく突然連絡を絶つとは思えない。それに、メイさんの部屋に来たあの男……。勘でしかないけど、あの男がメイさんの失踪に関わっているんじゃないかって」

 エイトは膝に置いた手を握りしめている。

「なるほど! きっとその男はメイさんの情夫で、安西くんに嫉妬した男はメイさんからスマホを取り上げたんだ!」

「伍堂、高校生に情夫とか言うなっ」

(ただ、伍堂の推測も可能性としては一理ある)

「安西くん、自宅以外にメイさんが立ち寄りそうな場所に、何か心当たりないかな?」

「えっと……そうだ、店! メイさんが働いている店なら、多分わかると思います」

 以前、食事をして別れた後、メイがその店に入っていくのを見たことがあるのだと言う。

「よしっ! じゃあ見に行ってみよーぜ!」

 3人は、エイトの案内で、角宇乃市の飲み屋街である明多町に向かった。

「確か、あの店です」

 エイトが指さした先にあるのは、周囲とは一線を画し、洗練された雰囲気の黒い建物だった。

 流麗な筆記体で綴られた『La Vieille』というネオンサインがさりげなく輝いている。

 K労働局職員御用達のスナック『あぷりこっと』も上品な雰囲気の外観であるが、敷居は決して高そうではないのに対し、こちらの店は相当な高級店と見受けられる。

(客として入るには手持ちが心もとない。どうしたものか)

 その時、エイトがあっと声を上げた。

「時野さん、アイツです!」

「えっ?」

 振り返ると、エイトは店の前に立つ男を指さしていた。

 長めの髪をオールバックにしたその男の様子は――。

(どう見ても、その筋の人じゃん!)

〈中編〉

 雑然としたラーメン一期堂いちごどうの店内で、その女は一際目立っていた。

 メニュー表を持つ細い指先も、長い髪を耳にかける仕草も、店内にいる誰もが釘付けになっている。

「おい、エイト。あの美人客、また来てるぞ」

 バイト仲間の脇本翼に言われて振り向くと、『掃き溜めの鶴』と言ったところか、場違いなほど美しく目立っている女の姿が目に入った。

 20代半ばだろうか。

 服装や髪型、化粧の雰囲気から、どうやら水商売を生業にしているようだ。

 女が初めて来店したのは、1か月ほど前らしい。

 それからというもの、度々来店する女のことを、スタッフ達は『謎の美人』と呼んでいる。

 エイトも話には聞いていたが、姿を見たのはその日が初めてだった。

 皆の噂どおりの美しい女が、長い髪をかき上げながらラーメンをすすっている。

(髪の毛で食べにくそうだな)

「これ、使ってください」

 エイトは、ヘアゴムを女に渡した。

「髪の長いお客様に無料で渡しているので」

 女は、少し驚いた様子でエイトを見つめている。

「……ありがとう」

 素直にヘアゴムを受け取ると、慣れた手つきで長い髪を束ねて、女は再びラーメンをすすり始めた。

 それからというもの、女はエイトを見かけるたびに話しかけてくるようになった。

 女が話しかけるスタッフはエイトだけだ。

 元々話し好きでも話し上手でもないエイトは、正直言って困惑していた。

 同僚たちからあることないこと噂され、うらやましがられることも面倒だ。

 女は夕方来店することが多かったが、その日は珍しく20時頃に現れた。

 服装も、いつものようなドレススタイルではなく、ブラウスにカーディガンといったラフな格好で、化粧もナチュラルメイクだ。

(今日は仕事が休みなのか?)

「エイトくん、学校が終わってからこんな時間までバイトしてたら、おなかすいちゃわない?」

 脇本がエイトと呼んでいるのを聞いたらしく、女も勝手にそう呼び始めていた。

「バイトの前に、賄いあるんで」

 一期堂では、厨房のスタッフが作った賄いを食べさせてもらえるのも、食べ盛りのエイトにとってはありがたい特典だ。

「へー、一期堂の賄いって、おいしそう!」

 女がそう言った時、エイトのおなかがグーと音を立てた。

「あ……の……これは……。賄い食ってもすぐ腹減るんで」

 いつも仏頂面のエイトも、さすがに顔が熱くなった。

「あはは! 思わず笑っちゃった! そーだよね、伸び盛りの男子高校生なんだもん、すぐにおなか減っちゃうよね」

 女の美しい顔面がふわっと崩れて、予想外に無邪気に笑うのを見て、エイトはドキリとした。

 そして女は、エイトにとって想定外のことを言い出した。

「じゃあ、この後何か食べに行かない?」

 2人は、一期堂からしばらく歩いたところにあるファミレスに入った。

「ご馳走するから、なんでも食べて」

 エイトがハンバーグ定食のご飯大盛を平らげるのを、女はドリンクバーの紅茶を飲みながら眺めていた。

「本当にご馳走になっていいんですか、えーと……」

「メイよ」

「えっと、メイ……さん」

 いつものエイトなら、食事に誘われて女についていくなど考えられないことだ。

 今更ながら、ほいほいついてきたことに不安を感じ始めていた。

「もちろん。大丈夫よ、取って食おうなんて思ってないから。ただ、若い男の子が気持ちよくモリモリ食べるところを見たかっただけ」

(そんなことってあるのだろうか)

 まだメイの言うことに半信半疑だが、メイが美しい所作でカップを持ち上げるのに見とれながら、エイトはメロンソーダをごくりと飲みこんだ。

「エイトくん、結構シフト入ってるけど、高校生がそんなに働いて、何に使うの? 彼女とのデート代?」

「……彼女とか、いません」

「あ、そーなんだ。カッコいいから、いるもんだと思ってた」

 脇本からも、『お前は顔がいいんだから、その気になれば選り取り見取りなのに』とよく言われる。

 だが、エイトには恋愛よりも優先すべき目標があった。

「早く家を出たいんで。その資金がほしいだけです」

「え? 家を出たいって……進学で一人暮らししたいってこと?」

「……」

「……ごめんなさい。立ち入ったことを聞いてしまって」

 エイトが黙り込んだので、メイもそれ以上は踏み込んではいけないと感じたようだ。

 メイは勘定を払った後、エイトにこう言った。

「ねえ、またご飯をご馳走させてくれない?」

「え……」

(一度だけの気まぐれならまだしも、見ず知らずの高校生にまたご飯をご馳走したいなんて、おかしい。一体どういうつもりだ)

 冷静な分析とは裏腹に、エイトはメイと連絡先を交換した。

(今日の俺はどうかしてる)

 メイの細い首筋や、腕時計をつけた華奢な手首や、そして――笑うと意外に幼く見える笑顔を思い出すと、胸の奥がチクンとした。

 ガシガシと強く頭を掻くと、エイトは早歩きで家路についた。

§2

『はーちゃん、こっちにおいで』

 子供のエイトは、声の主に近づいて膝に座ると、絵本を読んでもらっていた。

『昔、昔、あるところに……』

 優しい声は段々小さくなって、やがて聞こえなくなった。

『どこ?』

 エイトが探し回るが、優しい声はどこからも聞こえない。

『ねえ、どこ? おかあ……』

 その時突然、頭部に強烈な痛みが走った。

「コラ安西! 俺の授業で居眠りとはいい度胸だな」

 目を覚ますとそこは教室で、エイトの頭の上には教科書の角がのっていた。

(よりによって、担任の古典の授業で寝るとは。完璧にミスった)

 案の定、放課後に国語科準備室の掃除をするよう命じられてしまった。

(昔の夢を見るなんて、久しぶりだな)

 3歳の時に両親が離婚し、エイトは父親に引き取られた。

 以降、母親と会うことはなく、よほど険悪な状態で別れたのか、家族写真の一枚も残っていない。

 このため、エイトには母親の記憶がほとんどない。

 だが、時々、昔のことを断片的に思い出すことがある。

 さっきの夢も、その一部だ。

 エイトが10歳の時、父親は再婚した。

 父親の新しい妻はまもなく身籠り、妹が誕生した。

 妹は現在6歳。小学校に上がったばかりだ。

 エイトのことをお兄ちゃんと呼び、よく懐いている。正直言って、かわいい。

(だけど……)

 父親と妻、そして妹の3人でいるところを見ると、その3人が正当な家族に見えてくる。

 この家族にとって、自分だけが異質な存在に思えてくるのだ。

(早く家を出たい)

 いつの頃からか、エイトはそればかり考えるようになった。

 ため息をつくと、エイトはポケットからスマートフォンを取り出した。

『すみません。居残りになりました。1時間ぐらい遅れます』

 エイトがメッセージを送ると、メイからは『了解』と短い返事が返ってきた。

「今日はメイさんと会う日なのに、ツイてない」

 そう呟いてみて、エイトはハッとした。

 いつの間にか、会うことが主たる目的になっていることに気づいたのだ。

(メシをおごってもらえてラッキーなだけのはずなのに)

 初めて2人でファミレスに行ってから、3か月が経過していた。

 メイとは、1、2週間に一度のペースで食事に行っている。

 一期堂でアルバイトが終わった後で行くこともあれば、メイの出勤前に行くこともあった。

 連絡を取り合って、予定を合わせて、待ち合わせる。

 そして、会うごとに、親しくなる。

 メイは、一緒に食事をとることもあれば、飲み物だけを注文し、エイトがガツガツと食べる姿を見ているだけの時もあった。

 いずれの場合も、エイトを見つめる表情はいつもニコニコと優しい笑顔だ。

(あの表情って……。好かれてはいるようだけど、それは男として・・・・というわけではなさそうなんだよな)

 エイトは、モップの柄に頬杖をつき、はあーと大きなため息をついた。

 実は、今日は、初めてメイの家に行くことになっている。

 昨夜は、ドキドキと胸が苦しいほどに高鳴って、よく眠れなかった。それゆえ、授業中に居眠りをしてしまったのだろう。

 先週、2人で食事に行ったとき、メイに好きな食べ物を聞かれたので、カレーと答えた。

『じゃあ、次はココイチ行こうか』

『あー、店のカレーじゃなくて、家で食べるやつ』

 エイトの父親も、父親の妻も、時々カレーを作ってくれて、エイトは子供らしく喜んだものだったが、妹が生まれてからは作ってくれなくなった。

 妹はまだ幼く、カレーを食卓に出すなら、子供用カレーと大人用カレーを分けて作らなければならない。

 それは手間がかかるので、妹が生まれてからというもの、家でカレーが食卓に並ぶことがなくなったのである。

『まあ、妹がもう少し大きくなれば、家でもカレーが食えると思うから、いいんだけどさ』

 するとメイは、エイトにとって想定外のことを言い出した。

『じゃあ、うちくる? 私がカレー作ろうか』

 メイが一人暮らしだということは、これまでの会話でわかっている。

(女が男を一人暮らしの部屋に上げるって……。それとも、俺のことが対象外過ぎなのか?)

 エイトが混乱してうまく返事ができずにいると、あれよあれよという間に、メイのお宅訪問の日程は決まってしまった。

 教えてもらったメイの住所は、オートロック付きのマンションの一室だった。

 エイトが居残り掃除を終えて緊張しながらインターホンを鳴らすと、はあーいとメイの明るい声が聞こえてきた。画面でエイトの顔が見えているのだろう。

「いらっしゃい! 居残り大変だったね」

 メイはすでにドレス姿だった。化粧も済ませており、出勤できる状態でエイトを待っていた。

「私もあと1時間ぐらいで仕事に行かないといけないの。あまり時間がなくてごめんね」

「いえ、俺が居残りになったのが悪いんで」

 室内に入ると、スパイシーな香りが立ち込め、エイトの食欲を刺激した。

「はい、どーぞ」

 エイトは、メイが出してくれたカレーをスプーンですくいあげると、口に含んだ。

「……?」

 ごく一般的な市販のカレールーで作られたカレーのようなのだが、少し特徴的な味がした。

(あれ? こういう味……なんだか……)

「どう?」

「うまいです。うまいけど……もしかして、ちょっと焦げてます?」

「あー、バレちゃったか。炒めてる時に焦げちゃったのよね。あと、煮込んでる時もちょっと目を離した隙に……」

 カレーで失敗するとは、メイはあまり料理が得意ではないようだ。

 照れくさそうにしているメイを見て、愛しさが込み上げてきた。

(これ、いよいよヤバくないか? でも、メイさんは俺のことは……)

 エイトは、気持ちを紛らわすように、ガツガツとカレーを食べた。

 食べ続けるうちに、エイトは別のことに気がついた。

(この焦げたカレーの味……覚えがあるような……)

「メイさん、あの……」

「ん?」

 メイは、両手で頬杖をついて、エイトを見ていた。

「このカレーって……」

 その時、メイの左手の手首に小さな痣を見つけた。その痣は、蝶のような形をしている。

 これまで外で会っていた時は腕時計をはめていたので、気がつかなかったのだ。

「……」

 エイトが痣に目を奪われていると、突然ガチャリと背後のドアが開いた。

「なんだ。遅れるって言うから心配して来てみたら、若い男をくわえ込んでたのかよ」

「!」

 メイの部屋に入ってきたのは、すらりと背の高いハンサムな男だった。

 だが、どう見ても、まとっているその空気感は――。

(もしかして、ヤ、ヤクザ?)

「勝手に入ってこないでっていつも言ってるでしょ!」

 オートロックのマンションで、インターホンを鳴らすことなく、男は入ってきた。

 つまり――この部屋の合鍵を持っているということだ。

 メイの言葉に答えず、男はエイトをじっと見た。

「……お前、こんなガキが好みだったのかよ」

 ニヤニヤと笑みを浮かべる男を、メイはキッと睨みつけた。

「そうよ。何か悪い? 早く出てって!」

 男は近づいてくると、メイの細い顎をつかんだ。男の顔面からは笑みが消えている。

「坊ちゃんとのままごと・・・・は早く終わらせて、さっさと店に出てこい。わかったな」

 去り際に鋭い視線をエイトに向けると、男は部屋を出て行った。

「……」

 恐怖と衝撃でエイトが何も言えずにいると、メイが口を開いた。

「……ごめんね、エイトくん。怖かったよね」

「あ……あの人は、メイさんの……?」

「一応、家族・・……かな」

 目を伏せながら、メイは苦しそうにそう言った――。

§3

「時野さん、あの男です、メイさんの部屋に入ってきたのは! あの男なら、メイさんの行方を知っているはずです!」

 その男は、ビシッと細身のスーツを着込み、長めの髪をオールバックにセットしている。

 映画に出てくる二枚目俳優のように恵まれた容姿だが、身にまとう独特の雰囲気から、男が堅気でないことが伝わってくる。

「えぇっ!」

 エイトはグイグイと時野の背中を押してくる。

(ど、どーしよ。これって、ヤバい筋の人だよな)

 いつの間にか、伍堂まで時野の背後に隠れている。

「おい伍堂! 無理矢理ついてきといて、僕を盾にするなよっ!」

 3人でワチャワチャしていると、さすがに男に気がつかれてしまった。

「なんだお前ら? あれ、お前……メイのセフレじゃねぇか」

「セ、セフッ……」

「えっ! そーなの?」

 伍堂に尋ねられて、いつもクールなエイトもさすがに顔を赤らめながら、首をブンブンとふっている。

「あ、あのっ! そのメイさんと連絡が取れなくて探しているのですがっ」

 言いながら、時野は身体をギクシャクさせて一歩前に出た。

「あぁ? てめぇはメイのなんなんだよ」

「なに、と言いますか、僕は、メイさんの知り合いの知り合いで……」

「はぁ?」

 男は時野に近づき、鋭い目つきで睨み付ける。

(こ、怖すぎる……! やっぱり格闘技は習っておくべきだった)

 時野が、蛇に睨まれたカエルの如く固まっていると――。

「片山マネージャー、どうしたんだい?」

 男の背後から、声が聞こえた。

「は? あ、これは佐伯様……」

(えっ?)

 男は片山というらしい。呼びかけられた片山が振り返ると、上等なスーツに身を包んだ佐伯が立っていた。

 スナック『あぷりこっと』の常連客だ。

 佐伯は、時野たちの方を見た。

「もめているように見えたが、どうしたんだ、り……」

「いえ! もめているだなんて、全くもってそんなことはありません!」

 佐伯の声を遮るように時野が叫んだので、伍堂とエイトもビックリしている。

「そうですよ、佐伯様。ただ、こちらの方々に声をかけられただけでして」

 片山は、接客用のスマイルで、佐伯に対して取り繕っている。

「……」

 佐伯は黙って時野に近づくと、何やら耳元でひそひそと話しかけた。

「……お願いしたいです」

 時野がそう答えると、佐伯は片山の方に向いた。

「実は、彼と私は知り合いでね。一緒に入りたいんだが、構わないかな?」

「それはもちろん、佐伯様のお連れの方でしたら構いませんが……」

 片山の態度からして、佐伯は店の上客のようだ。

 時野は伍堂とエイトを集合させると、小声で説明した。

「僕はそこにいる佐伯さんと一緒に店に潜入してみるから、伍堂と安西くんは先に帰ってて」

「えっ! じゃあ俺も行くよ」

「ダメだ。ほら、うちの鍵渡すから先に帰っとけよ」

 未成年が入れるような店ではないので高校生のエイトは問題外だし、伍堂がついてくるとやかましい。

 文句のありそうな2人を強引に帰らせると、時野は佐伯と共に店内に入ったのだった。

「あら、佐伯さん。少しお久しぶりかしら。今日はまた珍しいお連れ様ですね。お若い方とご一緒なんて」

 佐伯が指名したラウンジ嬢は、美しく顔立ちの整った『マリエ』という名の女だった。

「ああ、彼はね……」

「さ、佐伯さんとは、別のスナックで知り合いまして!」

 食い気味に言う時野を見て、佐伯は苦笑している。

「ああ、そうだったね。時野くん・・・・、でよかったかな」

「はい」

 佐伯と共にソファーに腰を下ろした時野は、さっそく店内を見回してみた。

 豪華でありながら落ち着いた雰囲気の店内は、照明がやや控えめで、数あるラウンジの中でも高級店に分類されるのだろう。

 マリエは2人からドリンクの希望を聞くと、黒服に合図をして注文を伝えた。

「マリエ、君はこの店は長かったかな」

 水割りを作るマリエに、佐伯が尋ねた。

「そうですね、もう10年になるかしら。いつの間にか、一番古株になっちゃいました」

 ふふふ、と上品に微笑みながら、マリエが答える。

「実は、時野くんがここのキャストに会いたがっていてね」

「あら、どの子かしら」

「メイさんという方なのですが……」

 時野が言うと、マドラーを回すマリエの手が一瞬止まった。

「メイちゃんね。あいにく、今日はお休みをいただいておりますの。せっかくお越しいただいたのに、申し訳ありません」

 マリエは、美しい所作で佐伯に水割りを渡した。

「次はいつ出勤するか、時野くんに教えてやってくれないか」

「それが……長いお休みをいただいているようで、次の出勤日がまだわからないんです。ごめんなさいね」

 さすが夜のお店だ。そう簡単に教えてくれるわけはない。

「メイさんの知り合いが、一週間前から連絡がとれないと言って心配しているんです。連絡先とか居場所に心当たりがあれば、教えていただけませんか」

「それはご心配よね。でも、ごめんなさい。同僚と言っても、こういった業界だから、お互いのことはよく知らないの」

ツテ・・でなんとか店に潜入できたものの、どう切り込んでいけばいいか……)

 時野が突破口を探そうと頭を悩ませていると、佐伯が突然マリエの肩を抱いた。

「佐伯さんたら、どうしたの? 珍しいこと」

「この間の話。出資してもいいよ」

 マリエの耳元で、佐伯が囁いた。そして、ちらりと時野に視線を送る。

「時野くんの質問に答えてくれたらね」

「!」

(出資?)

 それからしばらく2人はひそひそと話すと、時野の隣にマリエが移動してきた。

 先ほどまでの余裕のスマイルではなく、少し困ったような表情だ。

「実は……メイちゃんは、一週間前から無断欠勤していて」

「えっ」

 時野が思わず声を上げると、マリエが時野の唇に人差し指を押し当てた。

「これは私の勘ですけど……」

 マリエは一層時野に近づいて声を潜めた。

「おそらく、店内のどこかに閉じ込められていると思います」

「!」

 時野は首を伸ばしたが、ところどころに背の高い衝立があり、他の客席や店の奥は見えないようになっている。

「どうしてそうだと?」

「それは……マネージャーの片山とメイちゃん、ただの同僚じゃないみたいなんです。無断欠勤とか飛んだ・・・とかなら、片山が血眼になって探すでしょうけど、片山がいつも通り落ち着いているのを見ると……」

 マリエは時野の耳元に顔を寄せた。

「それに、メイちゃんがいつもつけている香水の匂いがすることがあるんです。だから私、片山が店のどこかに監禁しているんじゃないかって……」

(か、監禁……!)

ー第5話〈後編〉に続くー

〈後編〉

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