労働Gメンは突然に season2:第4話「休憩時間は誰のもの」

労働基準監督官のお仕事小説、労働ジーメンは突然に、season2、第4話、休憩時間は誰のもの お仕事小説
NEWS

2/28:第4話〈後編〉を公開しました!

登場人物

時野 龍牙 ときの りゅうが 23歳
新人の労働基準監督官。K労働局角宇乃労働基準監督署第一方面所属。監督官試験をトップの成績で合格。老若男女、誰とでも話すのが得意。

加平 蒼佑 かひら そうすけ 30歳
6年目の労働基準監督官。第一方面所属。時野の直属の先輩。あだ名は「冷徹王子」。同期の麗花にプロポーズするも返事を保留されている(season1・第6話)。

紙地 嵩史 かみじ たかふみ 43歳
20年目の労働基準監督官。第一方面主任。時野と加平の直属の上司。加平の過激な言動に心労が絶えない管理職。

石山 花音 いしやま かのん 17歳
父親が過労死したことで角宇乃署に相談。時野と加平、父の同僚の青池の尽力により長時間労働を会社に認めさせた(season2・第3話)。麗花のはとこ。

青池 涼太 あおいけ りょうた 25歳
(株)FortuneFields角宇乃営業所が営む『くるりんタコ焼き本舗』のスタッフ。花音の父親の同僚として時野と加平の調査に協力。

伍堂 快人 ごどう かいと 25歳
新人の労働基準監督官。S労働局所属。時野の同期。「初めて会った気がしない!」という口説き文句が口癖で惚れっぽい性格。

上城 乃愛 かみしろ のあ 22歳
新人の労働基準監督官。I労働局所属。時野の同期。ミステリアスな雰囲気の美人で、同期のマドンナ。

山口 貴則 やまぐち たかのり 41歳
18年目の労働基準監督官。労働大学校の准教授。時野たち新人労働基準監督官の指導にあたる教官。

本編:第4話「休憩時間は誰のもの」

〈前編〉

§1

 大晴たいせいが腰をかけると、古い回転椅子がギッと音を立てて軋んだ。

 パソコンの画面に向かってログインパスワードを入力し、スタッフの勤怠管理システムの画面を開く。

 大晴は、スタッフの一人の勤怠管理画面を開いた。

 7月30日(土)
 勤怠:12:00-20:00
 休憩:-
 労働時間:8時間
 休憩時間:0時間

 スタッフの勤怠管理は、バックヤードに設置された勤怠管理用タブレットで行っている。

 各自IDとパスワードを入力し、[出勤][退勤]ボタンをクリックすることで、出退勤時間が記録される。

 労働時間の途中で休憩をした時は、[休憩開始][休憩終了]ボタンをクリックして、休憩時間を記録する。

 大晴は、管理職だけが操作することのできる[編集]ボタンをクリックした。

 スタッフが打刻忘れや打刻誤りをした時に、システム上の管理者権限で勤怠記録を修正できるようになっているのだ。

 空欄だった休憩時刻の欄に、『14:00-15:00』と入力する。

 7月30日(土)
 勤怠:12:00-20:00
 休憩:14:00-15:00
 労働時間:7時間
 休憩時間:1時間

 変更点がハイライトされ、『上書きしてよろしいですか?(Yes/No)』と確認するメッセージが表示された。

 大晴が『Yes』を選択すると、何事もなかったかのように、編集内容は反映された。

 他の日、他のスタッフでも、同じ作業を繰り返す。

 作業を終えると、大晴はため息をついた。

 もう何度休憩時間の改ざんをしただろうか。

(もう止めないと、さすがにヤバいかも……)

 大晴が店長を務める『ラーメン一期堂いちごどう・角宇乃店』の月間売り上げ目標は500万円だ。

 一期堂は人気ラーメン店であるが、その中でも中規模店の角宇乃店にとって、500万円はかなり高めの目標設定だ。

 さらに、売り上げから材料費や家賃、人件費を差し引いた営業利益の月間目標は100万円と設定されている。

 これが冬場ならまだいいが、暖かくなってくると、どうしてもラーメン自体の需要が落ちる。

 角宇乃店でも春先から徐々に売り上げが減少し、目標を達成できない月が出始めた。

 売り上げが落ちても営業利益だけは達成するべく、同じ時間に店に出るスタッフの数を1人減らした。

 その分人件費は抑えることができたが、忙しくてほとんど休憩を取れなくなった。

 そこまでしても、あと10万円、営業利益の目標に届かなかった時にやり始めたのが、この方法である。

 角宇乃店のアルバイトの時給は1300円。このエリアでは高めの設定だ。

 休憩を取れなかった日の勤怠記録に、休憩を1時間とったものとして入力すると、結果的に労働時間が1時間減り、人件費が1300円減ることになる。

 例えば、
 1300円×3人×26日=101,400円
 となる。

 これで約10万円の経費削減だ。

 もちろん、不正な手段であることは重々承知しているのだが……。

『俺らの時代は休憩なんてあってないようなものだった』

『バイトには相場より高い時給を払っているんだ』

「……そうだ。だからいいんだ。いいはず。今は仕方ない」

 自分自身に言い聞かせるように発した言葉とは裏腹に、見えない何かがのしかかっているように身体が重い。

 大晴は回転椅子の背にもたれかかって天井を仰ぐと、顔面を両手で覆った。

「いらっしゃいませー!」

 店員の一人が客の来店に気がついて威勢のいい声を出すと、他の店員たちも口々にいらっしゃいませと叫んだ。

 大晴も発声をしながら店の入り口に目をやると、そこには見知った顔が見えた。

「おーい、大晴! ラーメン食いに来たぞ」

「よう、青池。久しぶりだな」

 高校の同級生である青池涼太だ。

 工業高校だったので、工業的な業種に就職した同級生が多い中、大晴と青池は非工業的な業種に就職した少数派だ。

「一期堂のラーメンが好きで、高校の時からバイトで入ってそのまま就職して、今じゃ店長だもんなー。すげーよ、大晴は」

 一期堂は社長が30年前にK県内で創業した大人気ラーメン店で、今では関東を中心に30店舗を展開するチェーン店だ。

 大晴はアルバイト勤務を経て高校卒業と同時に『株式会社一期堂』に入社し、複数の店舗で経験を積んだ後、半年前から角宇乃店の店長となった。

 25歳の若さで店長になるのは社内でも早い方だが、K県エリアを統括するエリアマネージャーの和田が、大晴を店長に推薦してくれたのだ。

「お前だって、無職でフラフラしてた時代が嘘のようじゃん」

 青池は、高校を卒業しても定職に就かず、ロクな生活をしていなかったようなのだが、何があったのやらここ数年ですっかり更生して、店に顔を出してくれるようになった。

「そーいうこと言うなって!」

 そう言って、青池はちらりと隣に目をやった。

「ていうか、さっきから気になってんだけど……お連れの方は彼女?」

 大晴は、青池の隣に立つ少女を見た。

 すらりと背が高く、細く伸びた首に乗る頭部は小さい。モデルのようなスタイルだが、表情にはあどけなさが残る。

(多分高校生だよな。JKに手え出すって、大丈夫かよ)

「バカ! そーいうんじゃないって」

 青池は、全力で否定した。

「この人は俺の恩人のお嬢さんで、石山花音さん。一期堂のラーメン食ったことねえって言うから、今度行こうってことで、今日来たんだよ! 花音ちゃん、こいつは俺の高校の同級生の中村大晴」

 少女が、大晴に向かってペコリと会釈した。

(ふーん……)

 店内は昼時で混雑していたが、ちょうどカウンター席が並びで空いたので、二人を案内した。

 青池は座るや否やメニュー表をとると、ラーメンの種類を熱心に花音に解説している。

 青池も、大晴ほどではなかったものの、高校時代から一期堂のファンなのだが――。

(熱心に解説する理由は一期堂のラーメンに詳しいからというだけじゃないみたいだな)

 青池たちがラーメンと餃子を残さず平らげた頃には、昼時の混雑も少し落ち着きを見せた。

 帰ると言う青池から伝票を受け取ってレジに立つと、青池は少し身を乗り出すようにして大晴の顔を覗き込んできた。

「大晴、なんか疲れてね? 仕事、大変なん?」

 周りに聞こえないように、小声で青池が言う。

「えっ?」

 悩みが顔面に出てしまっていたのだろうか。大晴は無意識に手を頬に当てた。

「まあ……人手不足だからな、うちだけじゃないけど」

「おい、お前もしかして長時間労働になってんじゃないのか?」

「いや……」

「労基に相談しろよ」

「えぇっ!?」

「実は最近労基に世話になったんだけど、すげーいい人達だったんだよ。なんなら俺から大晴のこと紹介するからさ、相談してみろよ」

(ろ、労基だって? 相談なんかしたら、取り締まられるのは俺の方だ)

 大晴は青ざめながら、手を振った。

「いやいや、そーいうんじゃないんだ。だから大丈夫!」

 青池は、怪訝そうな表情だ。

「ほんとに? じゃあどうしたんだよ、その目の下のクマは」

(クマ?)

 確かに、最近は夜布団に入っても熟睡できない。

 浅い眠りを繰り返して朝になり、仕込みのために早朝から出勤する。

「あーこれは……そう、ゲームだよ、ゲーム! 最近オンラインゲームにはまっててさ、つい夜中までやっちまって」

「なんだ、ネトゲかよ。じゃあ俺も一緒にやるわ。招待しろよ」

(えっ! どうしよう……)

 困って目を泳がせると、青池の背後に立つ花音が手持無沙汰の様子で自分の長い髪の毛を触っているのが目に入る。

「おい、彼女を待たせるなよ」

「あっ。花音ちゃん、ごめん! じゃ、また連絡するから次はネトゲでな、大晴!」

 明るい笑顔で手を振ると、青池は花音を連れて店を後にした。

(青池、心配してくれてありがとう。でも……『悪』は俺の方なんだよ)

 陽キャのヤンキーな青池の明るい笑顔が、大晴にはいつも以上にまぶしく感じた。

§2

 店内が落ち着いたので、厨房のスタッフに声をかけ、大晴は一旦バックヤードに下がることにした。

(今日は和田さんが来る日だから、売り上げデータを用意しておかないと)

 エリアマネージャーの和田は、K県内の店舗を統括する管理職で、月に一度は角宇乃店にやってくる。

 売り上げの確認をして問題点の改善を検討したり、営業上のアドバイスをしたり、店舗の悩みごとの相談に応じるのがエリアマネージャーの仕事だ。

 和田は背が高く、学生時代はアメフトをしていたスポーツマンだ。顔つきも精悍で、店舗スタッフだった頃はよく女性の来店客から逆ナンされていたとか。

 モテるのは女性客からだけではない。経営幹部からの信望も厚く、社長が勇退して現副社長が社長となった際には、和田が次期副社長と目されている。

 大晴が売り上げデータを印刷していると、後方の扉が開いた。

 入ってきたのは、高校生アルバイトの脇本翼わきもとつばさ安西葉月あんざいはづきだ。

(今日は夕方からのシフトか。入り時間にはちょっと早いが……)

「店長、おはようございます」

 一期堂では、時間帯が何時でも、入り時間の挨拶は『おはようございます』としている。

「おはよう。二人とも早いね。シフトは夕方からじゃなかった?」

 脇本は、安西に目配せをしてから、ポケットから折りたたんだ紙を取り出した。

「店長。やっぱり、先月のバイト代が少し足りないと思うんです。俺だけじゃなくて、安西もです」

 脇本が持ってきたのは、給与明細を印刷したものだった。一期堂では給与明細をデータ化しており、各スタッフにPDFで送付している。

 つまり、わざわざ印刷して細かく確認したのだろう。

「え、足りない? おかしいな、打刻したとおりで本社に送信したはずだけど……」

 答えながら、自分の目が泳いでいるのに気づく。

(落ち着け。相手は高校生だろ。大人が余裕をもって対応したら、負けたりなんかしない)

「二人で計算してみたんすけど。もしかして、忙しくて休憩取れなかった分が、入ってないんじゃないかって」

「!」

 人手不足と仕入れ価格の高騰のダブルパンチで、ここ数か月は、同じ時間に店に入る人員を一人減らしていた。

 このため、忙しい日は休憩を取ることもできずにシフトの終わり時間を迎えるということも珍しくない。

 その場合、勤怠管理用タブレットで休憩時間の入力を行わないので、休憩をとれなかった時間分はそのまま『労働時間』としてカウントされ、給料で支払われることになるのだが……。

「きゅ、休憩取れなかった分が入ってない……?」

 売り上げデータの紙をもつ手のひらに、じわじわと汗がにじみ出る。

「わかった、本社に聞いてみるよ。給与計算は本社でやってて、俺じゃわからないから」

「でも、店長……」

 脇本がさらに言いかけた時、バックヤードのドアが開いて和田が入ってきた。

「おつかれさまー」

「マネージャー、おつかれさまです」

 和田は脇本と安西を見ると、白い歯を見せた。

「脇本くんと安西くん……だったよな? おつかれさん! 今日は夕方のシフト?」

 和田は、アルバイトを含めて店舗のほとんどのスタッフの名前を憶えている。こういうところも、信望が厚い所以だ。

「は、はい!」

 脇本は直立不動で返事をしている。店長の大晴と違って、スーツをびしっと着こなしたエリアマネージャーの和田が相手だと、緊張するようだ。

「中村くん、データできてる?」

「あ、はい!」

(そうだ、訂正箇所に印をつけないと……)

 大晴は、いつもズボンのポケットに入れているボールペンを取り出そうとした。

(あ、しまった。さっきお客さんに貸したんだった)

 先ほどラーメンを配膳した時、サラリーマンらしい客からボールペンを貸してくれと頼まれ、思わず自分のボールペンを渡したのだが、返してもらうのを忘れてしまった。

 どこかに書くものはないかと周囲を見回した時、今日のところは諦めたらしい脇本が更衣室に移動する姿が目に入った。

(ちょうど和田さんが来て助かった。脇本くん……ごめんな)

「どうぞ」

「えっ」

 大晴が振り向くと、安西がペンを差し出していた。

「書くもの探してるんですよね? よかったら俺のどうぞ。バイト終わりまでに返してくれればいいんで」

「ありがとう。じゃあ借りるよ」

 大晴がボールペンを受け取ると、安西も更衣室の方へ歩いて行った。

「じゃあ、今月のミーティングはじめよっか、中村くん」

「あ、はい!」

 高校生には不釣り合いな重厚なデザインのペンを手に、大晴は和田に売り上げデータの説明を始めた。

 数日後。青池からLINEのメッセージが届いた。

『ネトゲの招待はまだかよ?』

(やば、既読つけちゃった)

 既読スルーするわけにもいかず、適当にごまかす返事を入力していると、厨房のスタッフが大晴を呼ぶ声がした。

 平日の午後2時。通常は客の少ない時間帯なので、バックヤードに下がって事務処理をしようと思ったのだが……。

(グループ客でも入ってきたのか?)

「忙しくなってきたー? 俺も出るわー」

 大晴がタオルを頭に巻き付けながら厨房に入っていくと、スタッフがカウンター席の向こう側を指さした。

「あちらの方が店長を呼んでほしいと……」

(え?)

 そこには、スーツ姿の男が二人立っていた。

 背が高く目つきの鋭い男と、大学生風の若い男だ。

(誰だ? でも、どこかで見たような……)

「店長は私ですが……どのようなご用件でしょうか」

 目つきの鋭い男が差し出した名刺を見て、大晴は心臓が止まりそうになった。

(労働基準監督官?!)

「角宇乃労働基準監督署の加平と申します。労働条件の調査で伺いました。労務管理書類を見せてもらえますか」

「えっ! あ、あの、ちょっとお待ちください」

 大晴はよろめきながらバックヤードに戻ると、和田の社用携帯に電話をかけた。

「和田さん! 今、店に労働基準監督官が来て、労務管理書類を出せと……」

『なんだって?!』

 和田も驚いた様子だったが、すぐに落ち着きを取り戻すと、大晴に指示を出した。

 大晴が戻ると、労働基準監督官たちは手持無沙汰そうに店内を見回している。

「すみませんが、労務関係の書類は全て本社にありまして。上司に連絡したところ、後日必要書類を準備するので、日程調整させていただきたいと……」

「そうですか。どなたにご連絡すれば?」

 加平と名乗った労働基準監督官に、驚いた様子はない。

「エリアマネージャーの和田という者にお願いします。連絡先は――」

 和田の社用携帯の番号を伝えると、労働基準監督官の二人は意外とあっさりと帰って行った。

 大晴はバックヤードに戻って壁にもたれかかった。

(まさか、休憩時間の改ざんがバレたんじゃ……)

 両足がガタガタと震え出し、やがて立っていられなくなって、大晴はその場にしゃがみこんだのだった……。

§3

「中村くん、久しぶりだね。本当はこんな用件じゃなく会いたかったけど」

「はい……新保しんぼ副社長」

 副社長の新保は50代。創業当初から働いているたたき上げで、社長の右腕として、一期堂をここまで大きくした立役者の一人だ。

 大晴が一期堂でアルバイトを始めた頃は雲の上の人だったが、店長になった今は、顔と名前を覚えてもらえる程度に近づくことができた。

「新保副社長。私も柏倉かしくら先生と一緒に一通り書類を確認していますし、ご心配には及びません」

 柏倉先生とは、株式会社一期堂が契約している『柏倉・新井経営税務コンサルタント事務所』の代表だ。

 税理士や社会保険労務士も所属していて、経営・労務・税務を幅広くコンサルティングしてもらえるので重宝しているらしい。

 和田はエリアマネージャーとして複数の店舗を管理する中で、様々な相談を柏倉先生にしているらしい。

 今日、三人は角宇乃労働基準監督署に来ていた。

 加平という労働基準監督官と日程調整した結果、来店の二週間後である今日、角宇乃労働基準監督署の会議室で調査が行われることになった。

 大晴は、いつものTシャツに前掛けではなく、紺色のスーツに身を包んでいた。

 いつもスーツを着ている和田や新保と違って、着慣れていない感が出てしまっていたが、どんな調査が行われるのか心配で、そんなことはもはや気にならない。

「お待たせしました。加平と申します」

「時野です。本日はよろしくお願いします」

 会議室に入ってきたのは、二週間前に来店した二人だ。

 名刺交換をすると、導入的な雑談もなく、加平はすぐに調査を開始した。

 三六協定、労働時間の記録、賃金台帳、年次有給休暇管理簿、雇用契約書、就業規則、定期健康診断結果――。

 提示を求められた書類は、和田が準備した。その中に、大晴が休憩時間を改ざんした労働時間の記録も含まれている。

 労働基準監督官たちは、手際よく書類を確認していきながら、次々と質問を投げかけてきた。

 質問には、よどみなく和田が答えていく。

 大晴は、両手を握りしめながら、ただただその様子を見ていた。

(滞りなく終わってくれ、頼む――)

 一時間程経過しただろうか。どうやら、一通りの調査が終わったようだ。

「いかがでしょうか。当社の労務管理に問題はございましたか?」

 和田が訊ねると、二人の労働基準監督官は黙り込んだ。

 さすがは次期副社長の呼び声も高い和田である。柏倉先生との予習もばっちりで、労働基準監督官たちと対等に対峙している。

(耐えた……)

 大晴の緊張がやっと解けそうになった、その時――。

「角宇乃店の労働者から、賃金不払の相談がありました」

「!」

 和田もさすがに驚いた様子だ。

「賃金不払って……一体どこがでしょうか。私どもは、コンプライアンス違反となる行為は断じて行っておりません。先ほどから見ていただいて、おわかりでしょう?」

 大晴は、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。

「相談者によれば、忙しくて休憩が取れなかった日があるが、その時間の賃金が払われていないと」

(脇本くんと安西くんだ……!)

 大晴は平等に(?)全てのスタッフの休憩時間を改ざんしたのだが、気がついたのはあの二人だけだ。

「そんなわけありません! 労働時間の記録をもう一度見てください! 休憩が取れていない日なんか、ありませんよ。ちゃんと休憩時間が入力されているでしょう? これは、労働者が自分で打刻するんですから。なあ、中村くん?」

 急に和田から話をふられて、大晴はびくんと肩を震わせた。

「はい……」

 絞り出すように返事をしたが、生きた心地がしない。ワイシャツの背中はぐっしょりと濡れていた。

「我々は、労働時間の記録の改ざんが行われたと考えています。つまり、休憩が取れていない日であるにもかかわらず、何者かが後から休憩時間を入力した。その分の賃金が不払になっていると」

(!)

「何者かって……」

 和田が言葉を詰まらせた。

「システム上、管理者権限のある人は、労働時間の記録を編集できますね?」

「ええ、まあ……。スタッフが打刻忘れすることもありますから、管理者が編集できる機能はありますが……」

「角宇乃店の労働時間の記録について、管理者権限があるのは?」

「それは……店舗では、ここにいる店長の中村だけです。本社の方では、エリアマネージャーの私と人事部長ですが……」

「そうですか」

 そう言うと、加平がA4の紙を机の上に出した。

 それは写真をプリントしたものだった。スマートフォンで撮影した写真を拡大したらしく、画像が粗い。

「これは……?」

「7月30日の勤務終了後に勤怠管理用タブレットの画面を撮影したものです。30日土曜日を見てください。この時点では休憩の入力はなく、8時間労働した記録になっています」

 7月30日(土)
 勤怠:12:00-20:00
 休憩:-
 労働時間:8時間
 休憩時間:0時間

 新保と和田が、身を乗り出して写真を覗き込んでいる。印刷の表面がざらざらと粗いが、確かに加平の言ったとおりの記録となっている。

 加平が、もう一枚の写真を出した。

「そしてこれは、翌日になってから、再度7月30日の記録を撮影したものです」

 7月30日(土)
 勤怠:12:00-20:00
 休憩:14:00-15:00
 労働時間:時間
 休憩時間:時間

(!)

 真夏にスーツは暑い。だが、暑さとは違う理由で、大晴は背中の汗が止まらなくなっていた。

「休憩時間が入力されています。つまり、7月30日の閉店後に、何者かが記録を改ざんしたということです」

「そんな……これは何かの間違いだ! 改ざんなんかするわけが……!」

 和田が珍しく大きな声を出したが――。

「ええ。改ざんをしたのは和田さんではありません」

「えっ?」

「本社所属の方は、土日がお休みだそうですね」

「え? ええ、そうですが……」

「7月30日は土曜日です。当日の閉店後もしくは翌日の開店前に改ざんしたと考えられますが、いずれにせよ本社の人は休みです。休日出勤して改ざんした可能性もありますが、それは考えにくい。変に休日出勤して勤怠管理システムにログインすれば、後で不審に思われかねない。わざわざそんなことをせずとも、月曜日になってから改ざんすればいいことです」

「え? 本社の人間じゃないということは……」

 会議室にいる4人の視線が、突き刺さるように痛い。

「店長の中村さん。あなたですね? 休憩時間を改ざんしたのは」

 大晴は身体が硬直した。背中に流れていた汗が急速に冷えて、氷のように背筋が冷たい。

(詰んだ――)

〈中編〉

§1

 時は少し遡り――。

「いやあー、夏って感じで、いいねぇー!」

 上機嫌でビールのジョッキを傾けるのは、伍堂だ。

「伍堂くん、それ何回も言ってない?」

 くすくすと、乃愛が笑う。

「だって、乃愛ちゃんとビアガーデンデートできるなんて、こんな最高の夏ってないよなって」

 伍堂が手を伸ばし、乃愛の手に触れようとしたのだが――伸びてきた伍堂の手をがしっとつかんだのは時野だ。

「おい! なにすんだよ、時野」

「デートじゃなくて、同期会だろ!」

「あ、そーだった」

(そーだったじゃないよ! 夏沢さんのことも口説いてたくせに、全く節操がない!)

 時野たちは、都内のデパートにある屋上ビアガーデンに来ていた。

 伍堂の呼びかけで関東近県の同期が集まり、同期会をしているのだ。

「時野は夏休みいつとる?」

 国家公務員の夏季休暇は3日。7月から9月の間に取得することになっており、年次有給休暇を2日取って平日5日間を休むことが推奨されている。

「休みを合わせてさ、一緒に旅行でも行こうぜ!」

「断る」

「即答かよ! 俺と時野の仲なのに、なんでそんなに冷たいんだよぉー」

 伍堂がのしっと時野の肩にもたれかかる。

(だからどういう仲だよ、この酔っ払い!)

「忙しいから、いつとれるかマジでわからんし」

「時野くん、ダメだよ。休暇はちゃんととらないと」

 ビールのジョッキを手に近づいてきたのは、山口准教授だ。

 休日だが、教え子たちのお誘いに喜んで応じてくれたらしい。

「労働基準監督官がきちんと休みを取らないなんて、問題アリですよ。『忙しい』は言い訳になりませんからね。一人前になればもっと忙しくなるんですから、忙しくても調整して休む能力をつけるのも、仕事のうち!」

 確かに、新監の時野よりも、先輩の加平や紙地一主任の方が断然忙しい。

「なるほど。わかりました! ちゃんと休みを取ります」

「お! じゃあ、俺と旅行に……」

「だからそれは、い・か・な・い!」

 二人の掛け合いをみて、乃愛が大笑いしている。

「あ、そーだ!」

「?」

 何かを思い出したらしい伍堂が、時野の耳元に顔を寄せた。

「このデパートの隣のホテルの屋上にさ、ナイトプールがあるらしいんだ」

「ナイトプール?」

「ここからなら、見えるかもな。ちょっと見に行ってみようぜ」

「は?」

 有無を言わせず、伍堂が時野を屋上の端に引っ張っていった。

「伍堂お前、高所恐怖症なのに……」

「だーいじょうぶだよ、しっかりした柵があるから! イイ感じのナイトプールだったら、今度乃愛ちゃんを誘いたいんだ」

 確かに伍堂の言ったとおり、大人の身長よりも高い柵が屋上の周囲を取り囲んでいたが……。

「お前の不純な動機に僕を巻き込むなよ!」

 時野は伍堂を振り払おうとしたのだが、体格が一回り大きい伍堂がつかんでくる腕は力強く、結局柵のそばまで連れていかれてしまった。

「うーん、よく見えねーなー」

「当たり前だろ!」

 隣の建物の屋上から丸見えのナイトプールなど、流行るわけがない。

 ライトアップの光が見えるものの、プールや人は見えないように壁や観葉植物で覆われていた。

「ほら。やっぱり、なんも見えない。もういいだろ伍堂、席に戻ろう」

 時野が伍堂の方を見ると、伍堂はナイトプールではなく目の前にある柵を見て固まっていた。

「伍堂?」

「俺……思い出した」

「え?」

 伍堂は時野の方に向くと、両肩をつかんできた。時野の方を向いているのに、焦点は時野の眼にあっていない。

「そうだ……犯人が俺を抱えて……どこかの屋上の柵を乗り越えて……」

 急に、ガクンと伍堂の膝が折れると、そのまま伍堂は床に座り込んだ。

「下に……落ちそうに……」

(もしかして、子供の頃の誘拐事件のことか?)

 手で顔を半分覆った伍堂の顔が、青白い。

「伍堂くん?」

「!」

 声をかけてきたのは、乃愛だ。後ろに、山口准教授の姿も見える。

「ラストオーダーだって。こんなところに座り込んで、どうしたの?」

 時野につかまりながら起き上がると、伍堂は正気を取り戻したようだ。

「いや、なんでもない。ラストオーダーか、じゃあもう一杯ビール頼もうぜ、時野!」

 席に戻っていく伍堂の背中を見ながら、時野は以前調べた高所恐怖症の資料のことを思い出していた。

『高所恐怖症の発症原因は、遺伝的要因、心理的要因、環境的要因があると言われている。遺伝的要因とは、家族内での高所恐怖症の集積性により遺伝子レベルで受け継がれること……。心理的要因とは、高所に対する過度の不安感によるもの……。そして、環境的要因とは……』

(高所で経験した恐怖体験による、トラウマ……)

§2
  • 事業場名:ラーメン一期堂角宇乃店(株式会社一期堂)
  • 所在地:角宇乃市南区〇〇町〇〇-〇
  • 業種:飲食業
  • 労働者数:25名

(あ、一期堂だ。この前災調の後で高光課長たちと食べたラーメン、おいしかったな)

 時野は相談者が目の前で書いている相談票を覗き込みながら、ラーメンの味を思い出していた。

(にしても、制服の相談者って珍しい)

 カウンターを挟んで時野と向かい合って座る相談者は、制服を着た男子高校生の2人組だ。

 学校帰りに寄ったらしく、学校名の入ったお揃いのスクエアリュックを背負っている。

 時野は、2人が記入中の相談票の氏名欄を見た。

 脇本翼(わきもとつばさ)17歳
 安西葉月(あんざいはづき)17歳

(高校生のアルバイトか)

「大体書き終わりました」

「じゃあ相談票はこちらにもらいますね。それで、今日はどのようなご相談ですか」

 労働相談はほとんどの場合相談員が対応することになるが、相談の結果申告受理となる場合や、相談員では対応しきれない内容の場合には、在庁当番として署内に待機している労働基準監督官が対応する。

 まだ研修中の身である新人の時野が在庁当番を受け持つことはないが、労働大学校での前期研修を終えたので、労働相談の対応で窓口に出ることも多くなってきた。

「バイト代が、ちょっと少ないんです」

「少ないというと?」

「働いた時間数かける時給で自分で計算した金額より、毎月数千円少ないんです。店長に聞いても理由がはっきりしなくて」

「労働時間の記録とか、給与明細はありますか?」

「給与明細は、印刷してもってきました。時間の方は、自分でスマホにつけたメモしかないんすけど」

 脇本が示した給与明細と、スマホのメモを見ながら、時野は手元の電卓で不足額を計算した。

「うーん、メモの労働時間数より、5時間分足りないみたいですね」

「あー、そんな感じっす。こっちの安西の方も同じで」

 脇本が指さすと、安西が軽く頷いた。

「で、俺たち考えてみたんすけど、もしかして休憩取れなかった分が入ってないんじゃないかなって」

「休憩取れなかった分?」

「俺ら学校があるから、平日のシフトは4、5時間なんですけど、学校が休みの日は8時間とか長めのシフトに入るんです」

 脇本が、スマホの画面を指さす。確かに、土日は8時間・9時間といった、アルバイトにしては長めの時間数でメモされている。

「去年は6時間を超える時は間に1時間休憩があって、社割でラーメン食ったりして。けど今年に入って中村店長になってからかなー、同じ時間に入るバイトの人数が減らされて、土日なんかすっげー忙しくて。休憩取れなくなったんすよ」

「つまり……例えば休憩なく8時間働いた日の給料が、8時間分じゃなくて、1時間休憩をとった場合と同じく7時間分の支払いになってるってこと?」

「そーそー、そういうことっす。なあ?」

 同意を求めるように脇本が安西の方を見たが、安西は小さく頷いただけだ。

「じゃあ、まずは今僕がやったみたいに、毎月の不足金額を計算して、事業場に請求してみてくれますか?」

 不足している賃金の支払いを正式に事業場に請求し、支払いを拒否されるか、期日までの支払いがない場合、『申告』として受理し、労働基準監督官が調査を行う。

「わかりました! 請求してみます」

 脇本はやることが決まってすっきりした様子だが、安西の表情は曇ったままだ。

(安西くんの方はあんまり気が進まないみたいだけど……どうしてだろう?)

「じゃあ、また結果が出たら相談に来ます!」

 事務室の出口に向かう脇本と安西を見送っていると、二人の会話が耳に入った。

「エイト、この後どうする? 腹減ったしなんか食い行く?」

(エイト?)

「ごめん、俺ちょっと寄るとこあるわ」

「わかった、じゃあまた明日学校でな!」

 正面玄関でお互い手を上げて二人は別れた様子だったのだが……。

(あれ?)

 脇本が帰って行く様子を見届けた安西が、再び事務室に入ってきた。

「安西くん、どうしたの?」

「あの……もうちょっと、相談いいですか」

「もちろんいいけど」

 驚く時野を、安西はまっすぐに見つめると――。

「俺……知ってるんです」

「え?」

「中村店長が、休憩時間の改ざん・・・をしていること――」

(改ざん?!)

§3

「休憩がらみの違反の特定は、難しいんだよなー」

 紙地一主任が腕を組みながら加平を見やると、加平も頷いた。

 脇本と安西から受けた一期堂の労働相談について、時野は2人に報告した。

『勤怠管理用タブレットにログインすると、自分の当月分の労働時間の記録を見ることができます。月が変わったら見れなくなるんですけど。これ、見てください』

 安西は、スマートフォンで撮影した勤怠管理用タブレットの画面を時野に見せた。

 安西によれば、7月30日土曜日の勤務終了後に自分の勤怠管理用タブレットの画面を撮影した時にはなかったのに、翌日にログインした時には7月30日の記録に休憩時間が入力されていたのだと言う。

『消去法で、犯人は店長だと思います。本社の人も編集できると思うけど、本社は土日休みだから。土曜の夜に編集をかけられるのは中村店長しかいません。8月に入ってから編集すれば、俺に見つかることもなかったけど、給料が月末締めだから……。平日はバイトが少なくて店長は逆に忙しいから、土日のうちに改ざんを終えようとしたんじゃないかと思います』

 脇本と2人で相談カウンターに座っていた時にはほとんどしゃべらなかった安西だが、ここまで自分で証拠を固めていたとはと時野は驚いた。

 休憩に関する調査をする上で、実際に休憩をとったかどうかを客観的・・・に判断するのは難しい。

 仮に店内に防犯カメラがあったとしても、休憩室にまでカメラを設置していることはまずないし、映っていない場所で休憩している可能性もある。

 本人が休憩を取っていないと主張しただけで、客観的な証拠もなく法律違反と断定するわけにもいかない。

 だが今回の場合――安西が撮影した勤怠管理用タブレットの写真は、一定の証拠として事業場側につきつけることができるだろうという意見で、一方面は一致した。

(ただ……)

『この写真、脇本くんには見せてないんだよね? どうして?』

 時野が質問すると、安西は目を伏せた。

『だって、店長は……』

「店長の中村さん。あなたですね? 休憩時間を改ざんしたのは」

 加平がそう言い、4人の視線が突き刺さるように自分に集中した。

「……中村さん? 聞いてますか?」

「は……い……」

 老人のように声がかすれて、自分の声じゃないみたいだった。

(もうこうなったら、潔く白状するしか……)

「申し訳……ありません。自分……が……改ざんしました」

 大晴は声を絞り出すように言った。

「中村くん……」

(どうして、こんなことになっちゃったんだろう。俺はただ、一期堂のラーメンが好きで、一期堂で働きたいって思っただけだったのに……)

 大晴は、自分の目から涙が流れているのに気がついた。

『一期堂のラーメンが好きで、高校の時からバイトで入ってそのまま就職して、今じゃ店長だもんなー。すげーよ、大晴は』

 ふいに、青池が言ってくれた言葉が頭に浮かんだ。

(そのままでいたかった。『一期堂のラーメンが好き』って、その気持ちだけでいたかったのに、俺は……)

 それ以上言葉が出てこない大晴を、4人は黙って見つめていたが――。

「そうですか」

 加平が感情の起伏のない声で言った。

「じゃあ、次はこれを聞いてもらいます」

 そう言って、加平が時野に目配せした。

 時野は頷くと、ノートパソコンを操作した。

 ザザザ……と、ノイズのような音に続いて聞こえたのは、男の声だ。

『……店長としてカド番なんだぞ。わかってんのか?』

〈後編〉

§1

 時は少し遡り――。

「お待たせしました、『一期堂ラーメン』の大が2つですね。麺固め・ニンニクなし・海苔増し・ほうれん草増しの方は?」

 大晴が注文のラーメンを配膳したのは、サラリーマン風の男性2人組の席だ。

 目つきが鋭い男と、大学生風の若い男のうち、大学生風の方が手を上げた。

「はいはーい、僕です!」

 2人の前にラーメンを配膳し、机の端に伝票を置いて厨房に戻ろうとした大晴を、大学生風の男が呼び止めた。

「すみません、『お客様アンケート』を書こうと思ったんですけど、書くものがないみたいで。ボールペンとかありますか?」

 一期堂では各卓に『お客様アンケート』の用紙が置いてあり、商品の味や接客態度、店内の清潔感などの質問事項に、客が無記名で回答する。

(おかしいな。ボールペンも用紙と一緒に置いてあるはずなのに)

「すみませんでした! これ、使ってください」

 大晴は尻ポケットから自分のボールペンを出すと、大学生風の男に渡した。

「ありがとうございます」

 大学生風の男はニッコリとしながらボールペンを受け取った。その様子を、目つきの鋭い男がじっと見ていた――。

「お前、ラーメンの注文がうざいな」

 一期堂ラーメンをすすりながら、加平が言った。

「だって、麺は固めが一期堂ラーメンには合うし、トッピングの海苔もほうれん草もスープに絡めて食べるとおいしくてー」

「わかったよ」

 加平が珍しく苦笑した。

「第一段階クリアですね。このままうまくいくといいんですけど……」

 時野が厨房の方を見ると、中村店長がバックヤードに引き上げていくのが見えた。

「芯の強そうなヤツだったから、やってのけるだろ」

 加平は食べながら言った。

 男子高校生2人組が相談に来た翌日。加平の指示で、安西を呼び出した。

 放課後、角宇乃署にやってきた安西から改めて詳しく話を聞くと、加平は安西にペンを渡した。

『盗聴器だ。店長に渡せるか?』

『!』

(とっ、盗聴器って! もうちょっと別の表現できないかなあ。『録音機能つきペン』とか! いやいや、そもそもどこで手に入れたんですか、加平さん!)

 重厚な黒色のペンは、よく見ると通常のペンよりも若干直径が太いようだ。

 もちろんペン先もあるので、普通に筆記具として使用することもできる。

『……やってみます』

『よし。ミーティングの前に店長に渡せ。ミーティングが終わったら回収して、監督署にもってこい。いいな?』

 安西は、緊張した面持ちで頷いた。

 そして、中村店長はいつもマイペンを持ち歩いていると安西から聞いた時野と加平は、事前にマイペンを取り上げるため、今、一期堂でラーメンを食べているのである。

(高校生を巻き込むのは気が引けたけど、頼める人は安西くんしかいない)

 ラーメンを食べ終わってもしばらく居座っていると、一期堂のユニフォームに着替えた安西が、時野たちのテーブルにやってきた。

「お済みの食器をお下げしてもよろしいですか?」

「はい」

 時野が答えると、安西は身体をテーブルに近づけた。

「うまく渡せたと思います」

 小声で言った安西に、加平が黙って頷いた。

(よしっ。第二関門クリア! 後は、うまく録れてくれれば……)

§2

「じゃあ、今月のミーティングはじめよっか、中村くん」

「は、はい!」

 大晴は、印刷したデータの何カ所かに安西のペンで印をつけると、エリアマネージャーの和田に渡した。

「前月の売り上げなんですが、490万円となっています。営業利益は98万円となっていまして、2万円の未達です。申し訳ありません……」

 和田は、大きくため息をついた。

「どうして、未達になったのかな?」

「あの、それは……」

 額から汗が流れてきた。体の中心から、ドッキンドッキンという大きな拍動も感じる。

 バン! と和田が机を叩いた。大晴の肩がびくんと震える。

「大晴、お前さあ……店長としてカド番・・・なんだぞ。わかってんのか?」

「は……はい……」

「あれは? 休憩時間の入力するやつ。してないのかよ?」

「しました。何時間か、しましたが……それでも……」

「何時間か?」

 和田が突然立ち上がった。学生時代はアメフトの選手として活躍したという和田は、体格が大きい。見上げると、巨人のように見えた。

 和田は椅子を引っ張って大晴の椅子の横に置くと、隣にドカッと腰をかけ、大晴の肩に腕をかけた。

「何時間か、じゃねぇだろ? 未達なら、改ざんできるところは全部やれよ!」

「でも、ただでさえスタッフの人数を減らして負担をかけているのに……」

 通常は、忙しい時間帯は6人でシフトを組んでいるが、和田に言われて5人に減らしていた。

「は? バイトには相場より高い時給を払っているんだ。それぐらいどうってことないだろ? てゆーかお前、そんな甘くて店長の覚悟あんのかよ?」

 売り上げや営業利益が上がらないのは、店長である自分の責任だ。上司の和田からのアドバイスも指示も、従うしかない。

(だけど……)

「このまま落ちて行って、本社が角宇乃店を切る判断をしたら、どうなる? バイトは解雇だぞ? お前だって、店長を下ろされる。休憩がどうのこうの言ってる場合じゃねえんだよ!」

 和田が、大晴の首に腕を絡めて力を込めた。

(うっ)

 呻く声すら出ない。

 すると、急に和田の腕が緩んだ。

「げほっ!」

 大晴は、むせるように咳をした。吐く息と引き換えに入ってくる新鮮な空気を、貪るように吸い込む。

「大晴」

 和田は、大晴の両肩に手を置いた。

「俺はな、いずれはお前をエリアマネージャーにしたいと思ってんだよ」

 大晴の両肩が、バンと叩かれた。

「社長も老いぼれてきた。新保さんが社長に上がるのも時間の問題だ。そうしたら、俺が副社長だ。わかるか? 俺がエリアマネージャーの人事を決められるんだよ」

 大晴が初めてアルバイトで入った店舗で、和田は店長をしていた。

 すぐに和田はエリアマネージャーに昇格したが、大晴は社員になってからも常に和田が統括するエリアの店舗で勤務してきた。

(和田さんには目をかけてもらってきた。お世話になっているのは事実だ。俺を店長に推薦してくれたのも……)

「だけど、俺のエリアの成績が悪ければ、他のエリアマネージャーが追い抜いて副社長に上がるかもしれない。そうなれば、お前が上がる目はない。一生、店長として働き倒して終わりだ」

(だけど、これ以上は……)

「なにをすべきか、わかるよな?」

(断れ。断るんだ)

 大晴が顔を上げて発言しようとした時、また首に腕を絡められた。

「大晴、返事は?」

「……わかりました」

 和田は大晴から離れると、椅子を元の場所に戻した。

「来月も目標以下なら、もう中村店長・・じゃなくなるからな」

 和田はそう言い捨てると、バックヤードを出て行った。

「店長、お客さんが返しておいてくれって」

 そう言って安西が渡してきたのは、大学生風のサラリーマンに貸したボールペンだ。

「ああ……」

 和田が帰ってから、どれぐらい時間が経過したのだろう。

 安西がバックヤードに入ってきて声をかけてくるまで、大晴は座り込んだまま放心していた。

「そうだ、安西くんにもペンを返さないとね。ありがとう、助かったよ」

 大晴は、ペンを安西に差し出したが――安西はペンを見つめたまま、受け取ろうとしない。

「安西くん?」

「俺、信じてます。店長のこと」

「え?」

 安西は大晴の手からペンを取ると、バックヤードを出て行った。

§3

『……来月も目標以下なら、もう中村店長じゃなくなるからな……』

「この声は……」

 そのあと、ザザザ……と音がしたところで、時野が音声の再生を停止した。

「中村さんは、休憩時間の改ざんを指示されて、実行した。その結果休憩が取れなかった時間分が、賃金不払となった」

 加平の視線の先には――。

「指示したのは、あなたですね? 和田さん」

「!」

「和田……お前……!」

 副社長の新保は、険しい表情で和田を見つめている。

「違います、新保さん! これは何かの間違いですよ」

「間違い? 和田さん、あなたの声でしたが」

「これは……俺の声じゃない!」

 先ほどまでの精悍な顔つきとは打って変わって、和田の顔は引きつっていた。

「和田さんの声じゃない? そうですか。じゃあもう一度聞いてみましょう。時野、再生!」

「はい」

 時野が、タン、とENTERキーを押下すると、再び音声が流れた。

『……何時間か、じゃねぇだろ? 未達なら、改ざんできるところは全部やれよ!……』

 流したのは、和田の言葉だけをあらかじめ編集して切り取った音声データだ。

「これ、和田さんですよね?」

「いや……」

「時野、次!」

『……は? バイトには相場より高い時給を払っているんだ。それぐらいどうってことないだろ? てゆーかお前、そんな甘くて店長の覚悟あんのかよ?……』

「和田さんの声にしか聞こえませんが?」

「それは……」

「次!」

『このまま落ちて行って、本社が角宇乃店を切る判断をしたら、どうなる? バイトは解雇だぞ? お前だって、店長を下ろされる。休憩がどうのこうの言ってる場合じゃねえんだよ!』

 和田の引きつった表情が、みるみる青ざめていく。

「あ……」

「次!」

『……社長も老いぼれてきた。新保さんが社長に上がるのも時間の問題だ。そうしたら、俺が副社長だ。わかるか? 俺がエリアマネージャーの人事を決められるんだよ……』

「次!」

『……だけど、俺のエリアの成績が悪ければ、他のエリアマネージャーが追い抜いて副社長に上がるかもしれない。そうなれば、お前が上がる目はない。一生、店長として働き倒して終わりだ……なにをすべきか、わかるよな?……』

「どうです?」

「……」

 和田は、唇を震わせている。

 加平は是正勧告書を取り出すと、立ち上がって和田に近づいた。

「まだ、しらばっくれるつもりか?」

 加平は、是正勧告書を和田の身体に押し付けた。

「あんたの自分勝手な野心のために、店長もバイトも、みんなが苦しんでんだよ!」

 和田は、引きつったままの顔で、加平を見上げた。

「次は俺が副社長だ? ふざけんのもいい加減にしろ! 法律も従業員も守れないあんたが、そもそも一期堂に必要な人間なのか、一から考え直すんだな!」

 加平が、是正勧告書をぐいっと強く押すと、押し付けられている和田の身体がぐらりと揺れた。

(冷徹王子、炸裂……!)

 副社長の新保が和田を抱えるようにして、会議室を出て行った。

 大晴も会釈をして出て行こうとしたところを、加平が引き留めた。

「時野、再生」

「はい!」

『……俺、信じてます。店長のこと……』

(これは、確か……)

「協力してくれたのは、安西くんです」

「えっ?」

 加平が目配せすると、時野が内ポケットから黒いペンを取り出して見せた。

「あっ! それ……」

「これ、安西くんに渡されましたよね? 実は、盗ちょ……じゃなくて、録音機能付きのペンなんです」

(それで、あの時の会話が録音されてたのか……)

 再生された音声の衝撃で、誰がどうやって録音したものなのかまで、大晴は考えが及んでいなかった。

「安西くんは、あなたが和田マネージャーからパワハラを受けているところを、目撃したことがあるそうなんです」

 大晴が半年前に店長になってから、和田からの身体的・精神的なハラスメントは始まり、それは徐々にエスカレートしていった。

 だが、和田からの指導が厳しいのは、店長としての自分が未熟なせいだと考えると、誰にも相談などできず、ただただ耐えるしかなかった。

「中村さんが安西くんの採用面接をしたそうですね。採用面接に連敗していたところを中村さんがとってくれて、接客が初めての安西くんに熱心に指導してくれたと言ってましたよ。だから、中村さんをパワハラから救ってほしいと、協力を申し出てくれました」

 時野は、微笑みながら大晴に説明した。

「中村さん」

 加平に呼ばれて、大晴は加平を見た。

「あんたはパワハラの被害者だ。だからって、休憩時間を改ざんした行為が許されるわけじゃない。それをよく考えて、反省するんだな」

「はい……申し訳ありませんでした……」

 さっきとは違う意味で、大晴の頬にしずくが流れた。

 1か月後――株式会社一期堂から是正報告書が提出された。

 新保副社長の指導の下、スタッフからの聴取調査や労働時間の記録の精査を行って、未払の時間に対する賃金は全額支払われた。

 休憩をきちんととれるよう、人員配置やシフトの改善、売り上げ目標の再設定などの取り組みも行われた。

 エリアマネージャーの和田は降格処分となったが、店長の中村大晴については訓告処分の後、引き続き角宇乃店の店長を務めることになったようだ。

「よかったですね! 賃金不払もパワハラも解決して」

 加平は答えずに、一期堂の書類一式を渡してきた。

「完結入力、やっとけ。完結決裁の起案もな」

 是正報告書が提出されて法律違反の是正が確認されると、基準システムの監督履歴に是正年月日の入力をしなければならない。

 事案を完結していいか、署長まで決裁をとる必要もある。

 つまり、それらの事務処理をやれ、という意味なのである。

「えええー……はい」

(加平さん、事務処理嫌いだよなあー)

 監督手法などは『俺の背中を見て覚えろ』という感じで細かい説明はないのに、事務処理については積極的に教えてきて、時野が覚えた事務処理はどんどん渡してくるのだ。

(時に過激すぎるものの……加平さんといると勉強になることも多いし、事務処理ぐらいは『はいよろこんで』だけどさ。人も物事も好き嫌いがはっきりしすぎなんだよなー)

 時野がじいっと加平を見ると、加平は不快そうに眉を上げた。

「やりたくねぇのかよ。もういい、貸せ!」

「そういう意味じゃないです!」

 加平が書類を取ろうとしたので、時野がひょいと持ち上げた。

「か・せ!」

「だから僕がやりますってば!」

「もういいから貸せ! ……あれ? アイツ……」

 加平の鋭い視線が事務室の入り口の方を向いていた。

「なんですか? その手には乗らないですよ! ……って、ん?」

 時野も思わず振り返ると、そこにいたのは――。

「安西くん?」

 時野は、事務室の入り口に立っている制服姿の安西葉月に駆け寄った。

(未払賃金は払われたはずだし、中村さんも店長に復帰できたし、一期堂の案件は万事解決したはずだけど)

「どうしたの?」

 安西葉月は深刻そうな顔でこう言った。

「時野さん、助けてください! 他に頼れる大人がいなくて……お願いです……」

「え? え? どうしたの? また一期堂で何かあったの?」

 安西葉月は首を振ると、時野の腕をつかんだ。

「俺の……大切な人が、行方不明なんです! どうか探し出してください!」

(えっ! 行方不明人の捜索? ここは労働基準監督署なんですけどー!!)

ー第5話に続くー

リンク

次の話を読む

season2も中盤!
第5話は4/11(金)公開予定
少し先になりますが
どうぞ楽しみにお待ちください♪

前の話を読む

全話一覧へ

season1を読む

電子書籍版(season1)

労働基準監督官のお仕事小説、労働ジーメンは突然に

season1を電子書籍化!

本編は本サイトに公開中ものと同じですが

🟡電子書籍版も読んでみる
🟡書き下ろし番外編を読む
🟡労働Gメンの小説を応援する

という方はぜひご購入お願いします!

電子書籍版の特典 第3話に登場した若月優香を主人公に労災年金にまつわるドラマを描く番外編を収録

AD Amazon・アソシエイトプログラムの参加者です。リンクからの購入・申込でとにーに収益が入る場合がございます。収益は活動費に充てます。いつもありがとうございます!

note版

noteでも本作を公開しています!(*内容はこちらに掲載しているものと同じです。)

労働基準監督官のお仕事小説、労働ジーメンは突然に、シーズン1(note版)
労働基準監督官のお仕事小説、労働ジーメンは突然に、シーズン2(note版)

タイトルとURLをコピーしました