登場人物
時野 龍牙 ときの りゅうが 23歳
新人の労働基準監督官。K労働局角宇乃労働基準監督署第一方面所属。監督官試験をトップの成績で合格。老若男女、誰とでも話すのが得意。
加平 蒼佑 かひら そうすけ 30歳
6年目の労働基準監督官。第一方面所属。時野の直属の先輩。あだ名は「冷徹王子」。同期の麗花にプロポーズ(season1・第6話)するも返事を保留されている。
紙地 嵩史 かみじ たかふみ 43歳
20年目の労働基準監督官。第一方面主任。時野と加平の直属の上司。加平の過激な言動に心労が絶えない管理職。
高光 漣 たかみつ れん 45歳
22年目の労働基準監督官。安全衛生課長。おしゃべり好き。意外と常識人。美人の先輩を追いかけて監督官に。妻は関西出身。
有働 伊織 うどう いおり 37歳
15年目の労働基準監督官。第三方面主任。労働基準監督官史上最もイケメン。バツイチ。部下の夏沢にほの字。
夏沢 百萌 なつさわ ももえ 29歳
7年目の労働基準監督官。第三方面所属。人からの好意にも悪意にも疎い。加平が苦手だったが、ある事件(season1・第4話)をきっかけに気になる存在に?
若月 優香 わかつき ゆうか 35歳
厚生労働事務官。労災課・補償係長。加平のことがお気に入り。別居と元さやを繰り返す労災監察官の夫とは大恋愛で結婚(season1・電子書籍版の書き下ろし番外編)。
黒瀬 麗花 くろせ れいか 27歳
元労働基準監督官。加平の同期。父の死の真相を探るべく色々やらかしたことで、謹慎を経て退職(season1・第6話/第7話/第8話)。
伍堂 快人 ごどう かいと 25歳
新人の労働基準監督官。S労働局所属。時野の同期。「初めて会った気がしない!」という口説き文句が口癖で惚れっぽい性格。
本編:第3話「17時までの労働者」
〈前編〉
§1
角宇乃市の中心部に所在する明多町は、K県内でも有数の飲み屋街だ。
居酒屋はもちろん、バーやスナック、遊技場に風俗店といった夜の店のネオンが、途切れることなく並んでいる。
そんな明多町の中でも少し静かなエリアに、スナック『あぷりこっと』はある。
こげ茶色のドアについている木製の取っ手は、これまで数多くの客が握ってきたために、なんともなめらかでいい手触りで、それはさながら『あぷりこっと』の居心地と似ている。
温かみのある店内で客を迎えるのは、『あぷりこっと』を20年切り盛りしてきた『ママ』だ。
年齢は40代半ば……いや、若々しい動きを見ると、30代後半と言われても通るかもしれない。
美人ではないが、赤い口紅がよく似合って男好きのする笑顔は、数々の常連客を虜にしている。
その温かみのある木製の取っ手を引いて、今日も常連客が来店する。
「ママ、来たよ!」
入ってきた客の顔を見ると、ママは人懐っこい笑顔で出迎えた。
「あら、高光さん。いらっしゃい。今日は、労働局のお仲間もご一緒?」
高光課長の後ろからぞろぞろと店内に入ってきたのは、紙地一主任、有働三主任、夏沢、永渡、そして時野だ。
時野が無事に労働大学校での前期研修を終えて角宇乃労働基準監督署に戻ってきたので、今日は方面と安全衛生課の職員が集まって、時野の『お帰り会』を開催してくれたのである。
明多町にある居酒屋での一次会を終えて、有志で二次会に行くことになり、高光が行きつけのスナックに皆を連れてきたのだ。
「今日は、新人の研修おかえり会してたんだ」
高光課長は時野の両肩をつかむと、カウンターに立つママの前にぐっと押し出した。
「ママ、これがうちの有望な新人! 以後お見知りおきを。ほら、時野くんも。ここはうちの職員が常連の店だから、ママの覚えはめでたい方がいいよー」
時野がおそるおそるママの方を見ると、頬を染めながら満面の笑みで時野を見ていた。
(う……)
そんなママを見た高光課長は、口を尖らせた。
「ちょっとちょっとぉー! 何だよその表情! ママって、こういう若くてぼんやりした男が好みなんだっけ?」
すでに一次会で出来上がっている高光課長は、誰にでも絡みがちだ。
(ぼんやり……い、言い方! さすがにイケメンとは言わないけど)
時野は無言の視線で高光課長に抗議したつもりだったが、高光課長は時野の方をチラリとも見ない。
「やだ、高光さん。そんなんじゃないわ。新人さんがとっても初々しいから、つい目を奪われただけよ」
「じゃあやっぱり、ママのいい人って、あの常連さん?」
「え?」
その時、あぷりこっとの入り口のドアが開き、一人の紳士が入店した。

「あら、佐伯さん。いらっしゃいませ」
佐伯と呼ばれた50歳前後と思しきその紳士は、上等なスーツに品のいいネクタイをしめて、シンプルな革のビジネスバッグを下げていた。
「そーだ! 佐伯さん!」
高光課長は、佐伯を指さしてから、ママの方を振り向いた。
「佐伯さんがママのいい人なんでしょ?」
それを聞いた佐伯は、笑いながらカウンター前の背の高いスツールに腰かけた。
「高光さん、誤解ですよ」
同じく常連である高光課長は、佐伯とも顔見知りらしい。
「彼女とは古い知り合いなんです。気心が知れているから居心地がよくて、よくお店に寄らせてもらっていますけど、高光さんが心配するような仲じゃありません」
「そうよ、高光さんたら」
ママもくすくすと笑いながら、佐伯におしぼりを出している。
「そーかなー?」
納得していない様子の高光課長の袖を、時野が引っ張った。
「課長、もうみんなあっちに座ってますし、そろそろ……」
見ると、角宇乃労働基準監督署の面々は先にボックス席に落ち着き、メニューを見ながら注文の相談をしている。
「それもそうだね」
高光課長が意外とあっさりと引いてボックス席へ向かったので、時野はホッとしたのだが、まだ話は終わっていなかったようだ。
「時野くんは、どう思う?」
「どう、とは……?」
「聞けばママも佐伯さんも独身らしいんだよ。その上、あの雰囲気……」
高光課長がカウンターの方を振り返ったので、時野もつられて振り返る。
カウンターを挟んで、ママと佐伯が談笑しているのが見えた。
佐伯の言う、気心が知れた仲というのは本当らしい。2人が醸し出す雰囲気は、スナックのママとただの客にとどまらない空気感であることは間違いない。
「はあ……まあ……どうなんでしょうね?」
「ママはあの通りの魅力的な人だし、これまでも度々常連客が口説いてきたわけ。だけどちっともなびかないのよ」
高光課長は時野に肩を組むと、声のボリュームを落として続けた。
「俺が思うに、それは本命がいるからじゃないかってね。佐伯さんは上場企業の重役らしくて、エリートサラリーマン。水商売のママとすんなり結婚というわけにはいかなくて、内縁関係なんじゃないかなと、俺は思う!」
鼻息荒く解説した高光課長に、ボックス席から声がかかった。
「課長、飲み物なんにしますー?」
「ごめんごめん、みんなはもう決まった? 俺はハイボールにするかな。ママ、注文お願い!」
はあーいという声が聞こえると、ママがボックス席に注文を取りに来た。
(ん?)
時野が視線を感じて振り返ると、佐伯がじっと時野を見つめていたのだった……。
§2
「それでは改めまして。時野くん、前期研修おつかれさまでした!」
時野のビールグラスの前に、皆のグラスが集まる。
「ありがとうございます!」
こうやって同僚たちが集まってくれると、自分が角宇乃労働基準監督署の一員になれた気がして、時野は素直にうれしくなった。
「ところで、前期研修では事件とか起こらなかったの? 刃傷沙汰とか恋の争いとか?」
そう質問してきたのはもちろん、ミーハー筆頭の高光課長だ。
「いえ、そういったことは特に……」
時野の答えに、高光課長は不服そうに口を尖らせた。
「なあんだ、最近の新監はおとなしいなー。新監研修と言えば、数々の伝説があるのに。ねえ、一主任?」
高光課長が、向かいの席でビールを飲んでいる紙地一主任に話を振る。
「まあ、そうですね。そう言う高光課長の代では、何か起こったんですか?」
「おおっと、よくぞ聞いてくれました! 俺の新監研修ではねー……」
紙地一主任の絶妙な合いの手で、高光課長が得意げに語り始めるのを見て、時野はホッとした。
(本当は、色々あったんだけど……)
労働大学校の前期研修では、高所作業車に乗る実技演習が行われたのだが、同期の伍堂のフルハーネスのストラップが切断され、高所恐怖症の伍堂にパニック発作を起こさせる事件が発生した。(season2・第1話)
時野の推理で浮かび上がった犯人は、同期の上城乃愛。伍堂の意中の女性だ。
伍堂の「初めて会った気がしない!」というお決まりの口説き文句が乃愛に誤解を与えたことが原因の事件で、誤解と分かった今は円満解決。同期としての交流が続いているようだ。
(雨降って、地固まる。それで2人がいい雰囲気になってまとまるのかと思ったんだけど……)
伍堂から新たに持ち込まれた問題は、伍堂が一目惚れをした思い人探し。
K労働局・縦浜南署の職場見学に参加した伍堂は、飛び入り参加した女性監督官に一目惚れしたのだが素性を聞き忘れてしまい、K労働局の同期である時野に探し出すよう依頼したのだ。(season2・第2話)
紆余曲折はあったものの、もう1人の意中の女性(?)である女性監督官を無事発見できたので、伍堂は大喜びで時野に礼を言っていたのだが……。
(ていうか、労働大学校に研修に行ってからというもの、伍堂に振り回されっぱなしじゃないか? それに……)
時野の脳裏に、縦浜駅での情景が浮かぶ。
労働大学校での前期研修の最終日。縦浜駅で別れた時、改札を通る前に伍堂は――。
『俺、お前の秘密、知ってるよ!』
伍堂はニッと笑うと、続けて言ったのは――。
『だから……これからもよろしくな』
時野はぶるぶると身震いした。
(伍堂のヤツ……どういうつもりなんだよ)
伍堂から時折発せられる得体の知れない圧のようなものが、なんとも不気味だ。
だが一方で、伍堂本人はカラッと明るく前向きな人柄で、どことなく憎めないから不思議だ。
(めちゃめちゃトラブルメーカーだけどな。その上……)
『実は俺、子供の頃に誘拐されたらしくて、親がトラウマみたいになっててさ』
先日時野の自宅に泊まった時、突然伍堂がそんなことを言い出したのだ。
もちろん、時野は詳細を尋ねてみた。
『それがさー。正直言って、あんまり覚えていないんだ。何しろ、俺が2歳の頃の出来事らしいからな』
伍堂が2歳ということは、20年以上前の出来事ということだ。
『俺って、当時はほとんどしゃべらない子供だったらしくてさ。保護された後も、誘拐されていた間のことを何も話さなかったらしいんだ』
2歳ならばまだあまりしゃべれなくても不思議はないが、伍堂は簡単な単語すら発しない無口な幼児だったらしく、それが誘拐事件の後も続いたので、随分両親が心配したのだと言う。
(黙っていると死ぬんかってぐらいよくしゃべる伍堂が、子供の頃とはいえ、しゃべらないタイプだったっていうのもビックリだけど)
『あ、でも心配はいらないぜ! 誘拐事件は警察が解決して、犯人は捕まったんだ。だから俺は別に大丈夫なんだけど、子供が行方不明になったトラウマが親の方に残っちゃってさ。それで、こんなにイケメンの大人に成長したのに、今だに無事を知らせる定時連絡してるってワケ』
伍堂はいつも通りカラッと明るい笑顔でそう説明したが――。
(本当に、それだけなのか?)
時野はスナックの喧騒の中で目を閉じた。頭にもやがかかったように、伍堂のことは色々とすっきりしないのだった……。
§3
「なんだよ? 何か言いたいことがあるのか」
月曜日の朝から、時野は加平に睨みつけられていた。
「えーと、いえ、別に……」
時野が角宇乃署に出勤すると、加平は珍しく先に来ていた。
(いつも始業ギリギリまで煙草吸いに行ってるのに、珍しい)
心の声が顔に出ていたのか、加平は不快そうに時野を見上げた。
「……」
それでもなお時野がじっと見てくるので、加平はバツが悪そうに目をそらしてしまった。
(なんか、あるんだな)
加平の後輩となって、3か月以上経過していた。
途中、労働大学校に行っていた期間があったものの、角宇乃署で最も行動を共にしている先輩は、やはり加平だ。
加平は良くも悪くも裏表のない性格だ。最初こそ怖い存在だったものの、時野はすっかり加平になついていた。
そして、そんな存在だからこそ、加平の様子の些細な違いにも気がつく。
加平の『何か』を見逃すまいと、業務が開始してからも、時野は隣の加平に神経を集中させた。
(気になる! でも、業務をしながら加平さんの様子を探るの、消耗するなー)
しかし、そう長く様子を窺う必要はなかった。
始業から30分ほどで、あっさりと加平の『何か』は判明した。
加平が突然立ち上がり、小走りで受付カウンターに近づいていく。
時野も慌てて追いかけると――。
(あっ!)
受付カウンターの向こうには、女性が2人立っていた。
そのうちの1人の顔を見て、加平の様子が朝からおかしかった理由がよくわかった。
「すみません、一方面の加平さんを……」
受付で用件を伝えながら、長くて艶のある黒髪を耳にかけたその女性は――。
「れい……」
加平が言いかけた後ろから、時野が大きな声を上げた。
「麗花さん!」
「えっ、時野くん? わー、久しぶりー」
麗花が時野に向かって笑顔で手を上げた。
「は? 時野、なんで」
自分が一番に出迎えようとしていたのに、後ろから時野に追い越された加平は、不服そうだ。
「麗花さん、お会いできてうれしいですけど、今日は一体どうしたんですか?」
黒瀬麗花は元労働基準監督官で、加平の同期だ。
同じく労働基準監督官であった父親の死の真相を確かめようとした麗花は、色々と問題を起こす結果となり、最終的に退職の道を選ぶことになった。
麗花の父の死について調べる中で、加平の後輩として時野が協力したことから、麗花と知り合ったのだった。(season1・第7話/第8話)
「実はね。こちらの石山花音さんの力になってほしくて、加平くんに時間をとってもらったの」
そう言いながら、麗花が後ろに立つ女性に目配せをした。
「石山花音と申します」
少女が丁寧に頭を下げると、ポニーテールにまとめた長い髪がさらりと肩から滑り落ちた。
すらりと背が高く、ショートパンツから出た長い脚は健康的に日焼けしている。
(JKかな?)
時野は麗花と花音を相談窓口に案内すると、加平と共に2人の正面に座った。
「実は、花音ちゃんのお父さんが亡くなったの」
「亡くなった?」
「はい。心筋梗塞でした。自宅で倒れて……すぐに救急車を呼びましたが、3日後に息を引き取りました」
女子高生の父親と言えば、40代から50代だろうか。中年と言われる年齢であれば、脳疾患や心臓疾患を発症しても珍しくない。
(父親が心筋梗塞で亡くなったことで、労働基準監督署に相談する理由と言ったら……)
時野が加平を見ると、花音が次の言葉を発するのを黙って待っている様子だ。
花音は、意を決したようにこう切り出した。
「父は……過労死したんです!」
〈中編〉
§1
中学に入学した年に、花音の母親は死んだ。乳癌だった。
見つかった時には既にステージⅣ。
まだ30代で若かったこともあり、あっという間に癌は母の命を奪っていった。
一人っ子の花音は、父親と2人暮らしになった。
子供の頃から父は毎日帰りが遅く、あまり親子らしい時間を共にした覚えがない。
母親が亡くなってもそれは変わらず、父は朝仕事に行くと夜遅くに帰ってくるので、花音はほとんど1人暮らしのような生活になった。
母親が亡くなって3年後。花音は高校に入学した。
高校生になると、多少は夜更かしもする。
このため、父が帰宅する時間に、花音が起きていることもあった。
夜11時。花音がトイレに行こうと1階に下りてきた時、玄関に座り込む父親を見つけた。
「お父さん、帰ってたの?」
「ああ……」
返事はしたものの、父は動かない。
「お父さん? どうして上がらないの? お風呂、まだ点けてあるけど」
花音にそう言われてやっと、父親は身体を重そうにしながら立ち上がった。
「お父さ……」
花音の声が聞こえていないかのように、父はのろのろと風呂場に歩いて行った。
通り過ぎる横顔を見た時、黒いような青いような父の顔色に花音は驚いた。
(なんてひどい顔……すごく疲れているのかな)
高校生になって、楽しいことが増えた。友達との会話、彼氏とのデート、推しのおっかけ。
正直言って、今の花音にとって、父親と言えば生活費を稼いできてくれるだけの存在だ。
一緒に住んではいるものの、顔を合わせることも会話をすることもほとんどない。
毎月決まった日に、台所の机の上にお金が置かれている。
お金を受け取ると、代わりに「ありがとう」と書いたメモを置いておく。
月に一度のそんなやりとりだけが、花音と父をつないでいたのだが……。
*
その日は、珍しく授業が昼までだった。
そういう日は大抵、友達か彼氏と遊びに行くのだが、友達はみんな予定があったし、彼氏とは最近別れてしまった。
自宅に着いて、玄関の鍵穴に鍵を差し込んで回したが、手応えがない。
(開いてる……?)
泥棒だったらどうしようと、おそるおそるドアを引っ張ると、上り口に父親が倒れていた。
「お父さん!」
「あ……う……」
花音の呼びかけに対し短い言葉を発したものの、明らかに様子がおかしい。
「お父さんしっかりして! すぐに救急車呼ぶから!」
父親は縦浜市内の総合病院に搬送されたが、意識を取り戻すことなく3日後に死亡した。
享年51歳。
(そんな……お父さんまで死んでしまうなんて……)
ほとんど顔を合わせることも話をすることもなかったのに、ただ存在していると言うだけで、父が心のよりどころとなっていたことを、初めて花音は自覚した。
花音の祖父母は父方も母方も亡くなっており、母は一人っ子で、父の年の離れた兄姉もすでに死亡していた。
親族らしい親族もおらず途方に暮れていたら、遠い親戚だという黒瀬麗花が訪ねてきてくれた。
花音の母親と麗花の母親が従姉妹同士らしく、麗花は花音にとって『はとこ』ということになる。
麗花と共に、近所の葬祭場で父の通夜と葬儀を執り行った。
制服を着て父の棺のそばに座っていると、父の勤務先の社長という男が話しかけてきた。
「石山さんの娘さんですね?」
ボストン型の眼鏡をかけた福田というその男は、スタイルがよくて父よりもずっと若いので、花音は驚いた。
「この度は突然のことで……本当にご愁傷さまです。石山さんにはいつもがんばっていただいていたのに、私どもとしても痛恨の極みです」
福田は、懐から分厚い封筒を取り出した。
「お嬢さんお1人では、これから何かとお困りでしょう。お父様の退職金代わりと思って、どうぞ受け取ってください」
花音は差し出されるがままにその封筒を受け取った。
「ちょっと待ってください。そのお金は、一体どういう……?」
隣に座っていた麗花が問いただそうとしたが、福田は立ち去ってしまった。
「ねえ、花音ちゃん。それ、もらっていいお金なのかな? もし本当に退職金としてもらうべき金額なら、こんな形じゃなくて正式に……」
麗花が心配して花音にそう言った時、別の男が話しかけてきた。
「それ、もらっておいていいと思いますよ」
花音と麗花が同時に男の方を見ると、男もさすがに驚いた様子で、慌てて自分の素性を説明した。
「あっ、すみません! 俺、青池っていいます。石山さんの職場の後輩っス」
青池は25歳。3年前に今の職場に入社した時に、仕事を教えてくれたのが花音の父なのだという。
「うちの会社、退職金なんかないんスよ。それが、あのケチな社長が金を出そうと思うほど、石山さんは本当に働き詰めでした」
青池は、福田が去って行った方に目をやりながら言った。もちろん、福田の姿はもう見えない。
「石山さん、心筋梗塞だったんですよね? それってもしかして、働きすぎでなるやつじゃないですか?」
「つまり青池さんは、石山さんが心筋梗塞を発症したのは長時間労働が原因だとおっしゃりたいんですか?」
麗花が問うと、青池は声を潜めた。
「俺はそうだと思ってます。石山さんは、会社に使い倒されて殺されたんスよ」
(父が会社に殺された――?)
§2
- 事業場名:株式会社FortuneFields 角宇乃営業所
- 所在地:角宇乃市中央区〇〇町〇〇-〇
- 業種:飲食チェーン
- 労働者数:8名
時野は監督対象の事業場基本情報を印刷すると、内容を確認した。
株式会社FortuneFields――花音の父親が勤めていた会社だ。
(角宇乃営業所の労働者数は8名だけど、関東を中心に10の営業所があって、全社的な労働者数は300名。割と規模の大きい企業だ)
株式会社FortuneFieldsの本社は都内のようだが、花音の父親――石山健三は、角宇乃営業所の所属だった。
労働基準監督署には管轄が決まっており、管轄エリア内の事業場でなければ指導する権限はない。
管轄は、事業場の所在地で決まる。
このため、本社が管轄エリア外でも、事業場――今回のケースでは角宇乃営業所――が角宇乃労働基準監督署の管轄であれば、指導するのは角宇乃労働基準監督署ということになる。
加平は、花音と麗花から相談を受けた内容を、すぐに紙地一主任に報告した。
『死亡した労働者は、朝7時に自宅を出て夜11時頃に帰宅していたそうです』
あくまで推定だが、通勤が1時間程度だったとして、仮に朝8時から夜10時まで働いていた場合、休憩1時間を除いても労働時間は13時間。
1日あたり5時間の時間外労働をしていたことになる。
『平日に月20日出勤したとしたら、それだけで時間外労働は月100時間です。その上、土日もほとんど出勤していたそうです』
『それが事実だとすると、かなりの過重労働だな。じゃあ、来月の監督計画に……』
そう言った紙地一主任に対して、食い気味に加平が提案した。
『一主任、今月、俺に行かせてください! 同僚だという”青池”の話では、死亡労働者以外の労働者も同じ状況のようなんです!』
『わ、わかった。じゃあ、加平、行ってきてくれるかな?』
加平が身を乗り出して懇願したので、紙地一主任はのけぞっていた。
(もう! 加平さんは、麗花さんが絡むと前のめり過ぎるんだってば)
普段は『冷徹王子』と呼ばれるクールな加平だが、意中の相手である麗花についてだけは、冷静でいられないらしい。
「準備できたか。そろそろ行くぞ」
「あ、はい!」
加平が官用車の鍵をとって事務室を出て行ったのを、時野は慌てて追いかけた。
「もしかして、今から例の事業場? 帰ってきたら、情報教えてね!」
廊下ですれ違った労災課の若月が、加平にそう言ってウインクした。
若月が『例の事業場』といったのは、もちろんFortuneFieldsのことである。
加平の取次ぎで、花音は労災課で労災申請の相談もすることになった。
石山健三が発症した心筋梗塞などの心臓疾患や脳疾患は、本来、生活習慣などに起因して加齢とともに発症する私病だ。
しかし、長時間労働を行うことによって、自然経過的な発症時期を早めることが医学的に認められており、一定以上の長時間労働を行った労働者が脳・心臓疾患を発症した場合、労働災害として認定される場合がある。
脳・心臓疾患の労災認定基準はいくつかあるが、認定となるケースの大半は、認定基準の1つである『⻑期間の過重業務』に該当する場合らしい。
(『⻑期間の過重業務』と認められる労働時間数は、確か……)
時野は労災課でもらったリーフレット『脳・心臓疾患の労災認定』の内容を思い出していた。
- 単月で100時間以上の時間外労働
または - 2~6か月平均で80時間以上の時間外労働
これは、発症前6か月間の時間外・休日労働時間数を評価することになる。
(花音さんの話が事実ならば、労災認定になりそう)
加平が労災課の若月に取り次ぐと、『加平から話しかけてくれるなんて珍しい!』と若月は大層喜んだが、花音のそばにいる麗花を見て、その喜びが吹っ飛ぶほどに驚いていた。
『ねえ、あれって黒瀬麗花よね? 一体どういうこと? ていうか、結局加平とはどうなってるわけ?』
若月は時野の腕をつかんで小声でそう聞いてきたのだが……。
加平は、これまでに2度、同期の麗花にプロポーズしたらしいのだが、返事を保留されているらしい。(season1・第6話)
(確かに、結局のところ2人は今どうなってるんだろう?)
時野は、運転席の加平を見た。
「なんだよ」
加平が、前方を見たまま不機嫌そうな声を出す。
(気になるけど、とてもじゃないけど聞けない!)
「いえ、なんでも……」
時野がおとなしく前を向くと、加平は官用車を加速させて、一気に国道を走り抜けた。
§3
建物の外観を見ただけで、元々なんの店であったのかがわかる場合がある。
1階建ての四角い建物で、上部は四角い帽子を被ったように取り囲まれた、店名やロゴの表示跡。壁はレンガ調――そう、コンビニエンスストアだ。
FortuneFields角宇乃営業所の外観はまさしくコンビニだ。どうやら、閉店した店舗を安く借り上げて入居しているらしい。
「……それが突然来られて、僕もわけがわからなくて。……はい。それなら、提示してほしい書類の一覧というのをもらいました。わかりました、すぐにFAXします。……了解です」
時野と加平がFortuneFields角宇乃営業所を訪問すると、所長の押元が対応してくれた。
ただし、『所長』というのは名ばかりの様子で、労働時間の記録や賃金台帳などの労務管理書類を提示するよう加平が求めたが、何一つわからないと言う。
「所長として従業員の業務のとりまとめはこちらでやっていますが、労働時間とか賃金とか総務的なことは全て本社でやってまして……。今連絡したら、本社から担当者が来るそうですから、少々お待ちいただけますか」
本社からは1時間ほどでやってくるとのことなので、時野と加平は待たせてもらう間に所長から業務の概要などを聴取することにした。
「会社としては飲食業ということになってまして、営業所によって取り扱っている商品は違いますが、うちの営業所では、たこ焼きの製造・販売をしています」
「たこ焼き?」
「ええ。主に、他社さんの店舗前スペースをお借りして販売を行う形態です。スーパーマーケットの入り口とか、ショッピングモールの駐車場の一角で、屋台が出ているのを見たことはありませんか? 『くるりんタコ焼き本舗』というんですけど」
「『くるりんタコ焼き本舗』? あっ、署の近くのディスカウントストアの前で見たことがあります!」
時野が言うと、加平も思い当たった様子だ。
「労基署の近くのディスカウントストアと言うと……もしかして、アトラスさんですか?」
「そうそう、そうです」
角宇乃労働基準監督署の裏手から少し歩くと、『アトラス市場』というディスカウントストアがあり、総菜や弁当の取り扱いもあるので、時野はよくそこで昼ごはんや飲み物を調達していた。
「ええ、アトラスさんでも『くるりんタコ焼き本舗』の屋台を出させてもらっていますね。確か週2回だったかな」
(アトラス市場でたこ焼き屋が出ているのを何度か見たけど、昼ご飯を買いに行ったときはもちろん、帰り際に寄ってもまだ屋台は出ていたような……)
「その屋台というのは、何時から何時までしているんですか?」
加平が質問すると、所長は後頭部を触りながら答えを考えている。
「そうですね……。出店先の開店時間にもよりますけど、大体お昼に間に合うように屋台を設置しますから、11時ぐらいには販売できるようにしますね。終わりは……まちまちです」
「まちまちと言いますと?」
「それは……担当者本人の都合もありますし、出店先のご希望もありますから……」
(ん? どうしたんだろう)
所長は、どうも歯切れの悪い物言いだ。
「それでは、アトラス市場の場合はどうですか」
「えっ、アトラスさんですか? えーと、確か担当は青池くんだから……」
(『青池』って確か……花音さんのお父さんの同僚として、葬儀に来ていたという男性だ)
加平も気がついているはずだが、ポーカーフェイスを保っている。
「アトラスさんは閉店が夜10時ですから……閉店頃までは屋台を出していると思いますが……」
「朝は? 屋台を出すまではどうしているんです?」
「ああ、朝営業所に出勤したらたこ焼きの食材の仕込みです。8時か9時ぐらいから始めます。うちは他の営業所の仕込みも受け持っていますから、2時間ぐらいはかかりますね」
(8時または9時が始業で、夜10時頃に終業するとなると、やはり花音さんの話のとおりの長時間労働だ)
「先ほど、終わりの時間はまちまちという話がありましたが、大抵は出店先の閉店時間まで屋台をするのですか」
「まあ、そうですね……。出店先の方から、閉店まで屋台を開けてほしいと要望される場合が多いので……」
所長は、軽くため息をついた。
「夜ご飯のおかずとか、晩酌のアテとか、夕方から夜にかけてのたこ焼き需要は意外とあるんです。それに、辺りにたこ焼きのいい匂いが漂うと、客を呼び寄せる効果もあるみたいでしてね。ついでに店内で買い物するお客も増えるらしくて」
「平日だけじゃなくて、土日も屋台を出すんですか」
「まあ……そうですね」
「休みは月に何日ですか?」
所長の歯切れが悪いが、加平はどんどん切り込んでいく。
「ええと……それは……」
その時、ガチャリと入り口のドアが開いて、男性1人と女性1人が営業所内に入ってきた。
「押元くん、待たせたね」
男性がそう言うと、押元所長の隣に立った。
「しゃ、社長……」
(えっ! 社長?)
「代表取締役の福田と申します」
40代だろうか。いや、ボストン型の眼鏡がよく似合い若く見えるが、50代かもしれない。
(担当者が本社から来るというから、てっきり総務とか人事の担当者かと思ったけど、社長が直々にやってくるとは……)
さすが、こういうケースにも慣れているのか、加平には動揺が見られない。
「まずは36協定からお願いします。次は、労働時間の記録を」
名刺交換を終えると、加平はさっそく労務管理書類の提示を求めた。
本社から来た女性の方は、実際に労務管理の実務を担当している担当者のようだ。
加平の求めに応じて、36協定や労働時間の記録を持参した鞄から取り出した。
時野も加平と共にまずは36協定に目を通した。
36協定は、時間外労働の最大時間数をあらかじめ労使で協定しておく書類だ。
通常は、月45時間・年間360時間を最大時間として協定できるほか、『特別条項』を締結すれば、月100時間未満・年間720時間以内を上限として特別な延長時間も設定することができる。
FortuneFields角宇乃営業所の協定内容は、次のとおりだ。
- (通常)月45時間・年間360時間
- (特別条項)月99時間(年6回)・年間720時間
- 休日労働:月5回
(特に問題はないけど、協定可能な最大時間で締結したって感じだな)
次は、労働時間の記録の確認だ。
FortuneFieldsの労働時間の記録は、専用のアプリによるものらしい。
労働時間記録アプリに社員IDでログインし、出勤ボタンや退勤ボタンを押下すると、その時間が記録されるというものなのだという。
「必ずしも終業時刻に営業所に戻ってくるとは限りませんのでね。時間の有効活用のために、当社では積極的に直行直帰を認めていますから」
社長の福田は、眼鏡をくいっと押し上げた。
口元にはほんのり笑みを浮かべているようにも見える。
時野と加平の前には、角宇乃営業所所属の労働者8名の直近6か月分の労働時間の記録が置かれている。
(えーと、花音さんのお父さんのは……)
加平が他の労働者の分を確認している合間に、時野は石山健三の記録を探し出して手に取ったのだが……。
(え……? これは……)
時野が見ると、加平の眉がピクリと動いた。
「全ての労働者の終業時刻が、毎日17時になっているようですが?」

加平が福田社長をまっすぐに見てそう言ったが、福田社長に動じる様子はない。
「ええ。それが何か?」
「たこ焼きの屋台は、出店している店の閉店時間頃まで出しているのでは? 毎日17時に終えるということはないでしょう」
時野が確認した石山健三の労働時間の記録も、連日17時頃終業という記録になっていたのだ。
(明らかに、おかしい。だけど……)
すると、福田社長はわざとらしく肩をすくめた。
「労働者が自ら勤怠管理アプリを操作しているのですから。それで正しいと思いますが?」
「……」
加平と福田社長はにらみ合うように視線を合わせたままだ。
時野が押元所長を見ると、押元所長は脂汗をかいて小さくなっているように見えた。
「先月、こちらの労働者が亡くなりましたね?」
黙っていた加平が、口を開いた。
「え? ああ……石山くんのことですか?」
福田社長は少し虚を突かれた様子だ。
「ええ。石山健三さんです。その石山さんが、過重労働で死亡したという情報提供がありました」
「情報提供……? なるほどね、そういうことか。こんな小さな営業所に突然労基が来たと言うから、一体何事かと思ったら……」
福田社長は、女性担当者と一緒に合点がいったとばかりに頷きあっている。
「石山さんは、連日遅くに帰宅していたそうです。だけど、この労働時間の記録を見ると、終業時刻はほとんど17時前後。おかしくありませんか?」
加平の言葉を聞いた福田社長の目の奥が、キラリと光ったように時野には見えた。
「ああ、彼が労働者なのは17時までですから」
(えっ? 17時までの労働者……?)
〈後編〉
§1
「おかえり! 結構時間かかったね」
時刻は18時半。労働基準監督署の閉庁時刻である17時15分はとっくに過ぎている。
角宇乃労働基準監督署の正面玄関は施錠されているが、戻りが遅くなると連絡をいれていたので、紙地一主任が通用口を開けて待っていてくれた。
「一主任、遅くなってすみません」
「いいよ、元々残業するつもりだったから。それより、どうだった? もしかして、文書交付までいったの?」
事業場を臨検して調査を行い、法律違反の特定に至れば、その場で文書指導――是正勧告書の交付――を行うこともある。
「いえ、それが……」
加平は表情を曇らせながら、紙地一主任に状況を説明した。
*
「17時まで……とは、どういう意味ですか?」
福田社長の言葉に、加平は即座に聞き返した。
「当社は、従業員と2つの契約を交わしています」
福田社長が合図をすると、人事担当者の女性が2通の契約書を出した。
「例えばこれは石山くんとの契約書です。こちらは雇用契約で、もう一方は業務委託契約」
(雇用契約と業務委託契約……?)
加平が手に取った契約書を、時野は横から覗き込んだ。
雇用契約書の方には、所定労働時間が8時から17時と記載されている。
「基本の終業時刻は17時。それ以降に残るかどうかは本人の自由です。17時以降残った分については、業務委託契約により売上に対する歩合で支払います」
(歩合?)
福田社長は『業務委託契約書』を示した。『17時以降は売上の28%を業務委託料として支払う』とある。
「本人の自由と言っても、実態として17時以降も残らざるを得ないのではありませんか? 正直言って、この賃金設定では定時内労働だけで家族を養うのは厳しいと思いますが」
雇用契約書には、時給1162円とある。この時給は、K県の最低賃金と同じ額だ。
仮に所定労働時間だけ働くとすると、
1162×8時間×約22日=204,512
となるので、約20万円ほどの月収だ。
(僕の給料と同じぐらいだけど、僕が養っているのは自分だけ。家族も養うとなると、もっとあった方がいいだろうな)
「ですから、その選択は本人に任せているということですよ。定時だけ働くもよし、17時以降も残って業務委託で歩合を稼ぐもよし」
「……石山さんの場合、休みもあまりとれていないようですが」
労働基準法では、労働時間は1日8時間、週40時間と定められている。
それを超える労働については、36協定で協定した上限時間内に収める必要がある上に、割増賃金の支払いも必要となる。
石山健三の先月の労働時間の記録を見ると、休みが2日しかない。
このため、休みがない週では労働時間が
8時間×7日=56時間
となり、16時間の時間外・休日労働が発生していることになる。
つまり、福田社長の言う『17時以降は業務委託契約』を肯定するとしても、17時までの労働だけで週40時間を超えているのだ。
「ああ、もちろん週5日を超えて出勤した分は、割増賃金を支払っていますよ」
該当する月の石山健三の賃金台帳を確認すると、合計で56時間分――時間外労働が32時間分、休日労働が24時間分――の割増賃金が支払われていた。

(合計56時間でも少ないとは言えないけれど、特別条項を発動すれば36協定の上限は超えていないし、割増賃金を支払っているから法律違反はない。その上……)
石山健三の直近6か月分の労働時間を確認すると、記録上、週40時間を超える労働は月40~60時間程度であり、80時間を超える月はない。
(これだと、労災の認定基準である、単月で100時間超えあるいは2から6か月平均80時間超えに該当しないことになる……)
時野がチラリと福田社長を見ると、口元にほんのり笑みをたたえているように見えた。
*
「17時までは労働者、17時からは業務委託か。よく考えたもんだな」
紙地一主任も感心している様子だ。
「17時以降も労働時間だとすると、たこ焼きの売り上げがあってもなくても多額の割増賃金が発生することになるが、悪く言えば、そこを業務委託による歩合制にすることであくまで売り上げ見合い分しか払わなくていいわけか……。これは慎重な判断が必要だな」
「ええ。それで、一旦持ち帰ることにしました」
「だな。現場で判断できるような事案じゃない。材料を整理できたら、協議しようか」
「はい」
翌日。時野と加平は、福田社長らから確認した事項を取りまとめ、署内協議にかけた。
署内協議とは、労働基準監督署の署長以下労働基準監督官が集まって、議題について協議し、労働基準監督署としての判断を出す場だ。
署長・副署長・方面主任・担当官だけで集まる時もあれば、議題の内容によっては他の方面主任や安全衛生課長が加わることもある。
今回は、署長・副署長・紙地一主任・加平・時野の5名で協議したのだが――協議の結果、『福田社長の主張を否定し、17時以降も労働基準法上の労働者であると断定することは難しい』という署内判断となった。
(確かに今の状況では、17時以降の作業が労働時間と言えるかどうかは、グレーだ。法律上、グレーを黒と断定することは難しい。17時以降も事業主の指揮監督を受けて業務を行っているという証拠がなければ、これ以上は……)
FortuneFieldsの業務委託契約書には、労働者側の署名もある。
もちろん、業務委託契約書だけで判断するわけではなく、実態を見て判断するのだが、残念ながら、業務委託契約書の内容を覆す根拠は今のところないのだ。
時野が眉間にしわを寄せて考え込んでいると、加平が目の前に立った。
「?」
加平を見上げた途端、突然おでこに激痛が走った。
強烈なデコピンをされたのだ。
「いたっ! 急に何するんですか」
涙目でおでこを押さえながら、時野は加平に抗議した。
「1人で考え込んでんじゃねーよ」
「え?」
「福田の主張を否定できる何かを見つければいいんだろ?」
加平は口角をニッと上げた。
「加平さん……」
時野もつられて頬が緩む。
(でも、一体どうやって……?)
§2
時刻は夕飯時。
辺りにはソースのいい匂いが漂い、吸い寄せられるように次々と客が屋台の前に列を作る。
「お待たせしました、『うますぎたこ焼き』と『ネギだこ』1つずつですね。まいどありがとうございまーす!」
青池が、笑顔で客に商品を渡す。
(こんなに繁盛しているのは、たこ焼きの味だけではないのかもしれない)
仕事に疲れて、勉強に疲れて、おなかがペコペコの人たちに、元気が込められたたこ焼きを売っているようなたこ焼き屋。
夜の始まりの寂しくて疲れた空気を、陽キャの青池が作り出す元気な屋台が吹き飛ばしているかのようだ。
「すみません、お待たせしちゃって」
首にかけたタオルで汗を拭きながら、青池は屋台から出てきた。
「こちらこそ、お仕事中に申し訳ありません」
石山健三の同僚・青池涼太から話を聞くため、時野と加平は19時半頃アトラス市場にやってきたのだが、客の行列がはけるまで、結局30分ほど待つことになった。
「社長に会ったんスよね? 所長から聞きました。労基に対して、17時以降は労働じゃないと言い張ったって」
青池はガシガシと頭をかくと、ため息をついた。
「俺……昔は結構やんちゃしてて。いつしかギャンブルにはまって、終いには借金作りました。『学歴不問で歩合で稼げる』っていうフレーズに半ば騙されるように、俺はFortuneFieldsに入社したんス」
青池は、肩にかけていたタオルを両手で握った。
「そんな俺に教育係でついてくれたのが、石山さんです。飲食も接客も初心者の俺に、石山さんは一から仕事を教えてくれました。遅刻したら叱ってくれて、売り上げが上がったら褒めてくれて、客から怒られたら一緒に謝ってくれて……。出会って3年ですけど、俺にとっては親父のような人でした」
青池が言葉を切ると、屋台の鉄板のジューという音だけが聞こえてきた。
「昼頃から屋台は出しますけど、17時以降は一番売れ時なんです。それに、出店先――例えばここだったらアトラスとは、本社が契約してるんスけど、基本的には閉店まで屋台を出すって契約らしいです。だから、早じまいするなら出店先の許可を取らないといけなくて。急用で帰ろうとした従業員と出店先がもめた時なんか、石山さんが代わってラストまで屋台を出したりしてました。その日は石山さん、休日だったのにですよ? ……あ、いらっしゃいませ!」
客が来たので青池は屋台に戻って注文をとると、手際よくたこ焼きにトッピングをした。
接客を終えた青池が、「すみません」と言いながら戻ってきたので、時野は首を振った。
「石山さんは、角宇乃営業所で一番の古株だったんです。それに、後輩の面倒見もよくて。所長も、そんな石山さんに頼り切っていました。従業員が急に休んだり、出店店や客から怒られたりすると、石山さんが駆けつけてフォローしてたんス。それに、俺たちが週1は休めるように、石山さんが調整してくれて……本人はほとんど休めていなかったのに」
青池はぎゅっと拳を握りしめると、顔を上げた。
「俺、社長のこと許せません。石山さんは、勤務環境の改善を社長に何度も訴えてきた。だけど、売り上げがなければ給料も払えないんだぞって、半ば脅すようなこと言って、取り合わなかった。石山さんは、会社に殺されたも同然なんです! 俺にできることはありませんか」
「そういうことなら、協力してもらいたいことがあります」
加平がそう言うと、青池は大きく頷いた。
「もちろんです! 俺は何をすれば……」
加平の話を聞くと、青池はぱっと表情を明るくした。
「わかりました! 俺、やってやります! ……はーい、いらっしゃいませー!」
また客が来たので、青池は屋台に戻った。
元々明るい接客の青池だったが、さっきよりも声にハリがあるような気がした。
「加平さん、あの……」
時野が何か言いかけると、加平が時野の両頬をつまんでぐいっと引っ張った。
「一主任に余計な事言うなよ」
「ひゃい」
(上に言えないようなやり方だっていう自覚は、一応あるんだ……)
§3
「社長、労基署の方がお見えになりました」
角宇乃営業所の事務室で営業実績のデータに目を通していると、押元所長が声をかけてきた。
「わかった」
事務室の一角には簡易なテーブルに椅子が4脚置いてあり、打ち合わせや来客対応はそこで行う。
(文書を持ってくると言うが、どうせ指導票どまりだろう)
福田は、FortuneFieldsの運営方法に自信をもっていた。
これまでにも、営業所に労働基準監督署が調査に入ったことが何度かある。
最初は毎回肝を冷やしたものだが、結局、一度も法律違反の指摘を受けたことはない。
(どこの労働基準監督署も、細かく調べ上げて法律違反だと断定するだけの根性などないのだ)
事務室の扉が開いて、押元所長が加平と時野を連れて入ってきた。
(今回は、石山が死んだりしたから大ごとになったが、大事ない。こいつらも、俺のやり方を覆す度胸などないだろう)
「お待ちしていました。どうぞおかけください」
福田は営業スマイルで2人に椅子を勧め、自らも腰かけた。
「さっそくですが……」
加平が鞄から書類を取り出すと、福田の前に置いた。
「労働基準法第32条違反、第37条違反の是正勧告書です」
「!」
(違反だと?)
福田は眼鏡の位置を直しながら、目の前に置かれた『是正勧告書』を手に取った。
「32条違反は、36協定を超える時間外労働をさせたという意味です。37条の方は、時間外労働の割増賃金を支払っていない違反です。36協定を超える時間外労働の速やかな是正と、17時以降の労働に対する割増賃金の支払いをしてもらいます」
「な、何をおっしゃってるんです? 時間外労働は36協定の範囲内だし、割増賃金だってちゃんと……」
「それは、あくまで17時以降は労働時間ではないと仮定した場合ですよね?」
「ええ、そうです。そうご説明してきたはずですが」
(こいつは、何を根拠に、違反だなんて……)
加平は、福田の前に別の書類を置いた。
「アトラス市場と御社との間の契約書の写しです」
「!」
(な、なんでこれを労基が。まさか……)
福田が隣を見ると、押元所長が両手を握りしめてうつむいている。
「おい、おしも……」
「この契約書には」
福田は押元所長を問い詰めようとしたのだが、加平がさえぎった。
「原則としてアトラス市場の閉店時間まで屋台を出すという契約内容になっています」
「!」
「福田さん。あなたは、17時以降屋台を続けるかどうかは従業員の自由だといった。だが、本当に従業員の自由意思で屋台を閉めたら、契約不履行になりますよね?」
「それは……」
「授業員の自由意志と表面上は言いつつも、17時で屋台を閉めることは、実態としてあなたも従業員も想定していない。だから、急な休みや早退が出た時は、リーダー的な存在である石山さんが配置の調整をしたり、自らが代わりに屋台に立ったりした」
加平は、福田の方をまっすぐに見てきた。
(こ、こいつ……)
「事実上17時以降の屋台作業を義務づけたり、急な休みの代打に入らせるということは、17時以降も事業主の指揮命令の下に労働をしている、労働時間なんですよ!」
福田は視線を落とし、アトラス市場の契約書の写しを凝視した。
(くそっ! アトラスとの契約内容はバレたのなら仕方ない。ただし、他の出店先のことは把握していないはず……)
すると突然、大量の書類がバササッと福田の前に落ちてきた。
「!」
「ああ、もちろん、アトラス市場だけの話じゃありません。他の全ての出店先との契約書も同様であると確認しましたから」
福田の前に落ちてきた書類は、他の出店先とFortuneFieldsとの契約書の写しだったのだ。
(押元のやつ……!)
「他の出店先も全て、17時以降も労働基準法の労働者であって、労働時間であると、労働基準監督署は判断します」
「さっきから黙って聞いてりゃ、何を言ってるんだ! 俺は認めない! 他の営業所でも、労基から指摘されたことなんかないんだ! こんな……」
その時、福田のスマートフォンが鳴動した。
画面には、本社の電話番号が表示されている。
(急ぎでなければメッセージを送るはず。わざわざ電話をかけるとは、何かあったのか?)
「ちょっとすみません……。福田だ」
『社長、大変です! 角宇乃営業所エリアの複数の出店先から、屋台の出店時間を短くする内容の契約変更を当社の担当者が申し入れてきたという連絡が入っています! 一方的で勝手だと、いずれの出店先もお怒りで……』
「な、なんだと?」
(屋台の出店時間を短くする申し入れ? バカな。誰がそんなことを勝手に……)
福田はスマートフォンから耳を離すと、押元所長を睨みつけた。
「おい、押元! お前、勝手に契約変更の申し入れを……」
その時、事務室のドアが突然開き、青池を先頭に従業員がどやどやと中に入ってきた。
(な、なんでこんな時間に従業員が集まっているんだ)
「お、おい! 来客中だぞ! それに、各自の持ち場はどうしたんだ!」
「社長! 俺達、労働組合を作りました」
「は……?」
「働き方改革について、団体交渉を申し入れます」
(労働組合だと?)
「社長の対応によってはストライキも視野に入れてるんで、そこんところよろしくっス」
「な……に……?」
思考が追いつかず固まっていると、加平が是正勧告書を福田の面前にずいっと押し出した。
「受領者職氏名欄に、署名を」
「は……」
『社長! 出店先にはどう対応しますか? もしもし、社長!』
「今すぐ、団体交渉お願いします。 今はダメってんなら日程を決めてくれないと、ストライキっス!」
福田は青い顔で椅子からずるずると落ち、冷たい床に座り込んだのだった……。
§4
「……ええ。はい、わかってます、きつく言って聞かせます。……もちろんです、課長!」
受話器を耳に当てたまま、紙地一主任は一人で頭を下げ続けていた。
時野と加平は、そんな紙地一主任を見守っていたが……。
「はあー。やっと終わったー」
受話器を置くと、椅子の背もたれにもたれかかって紙地一主任は脱力した。
「一主任、おつかれさまです!」
時野が声をかけながら紙地一主任に駆け寄る。
電話の相手は、K労働局の監督課長だ。
労働局の監督課は、K県内の労働基準監督署を管理・指導する役割をもち、トップである監督課長は、本省から来ていることが多い。
FortuneFieldsを徹底的に叩きのめした加平について、福田社長が労働局に苦情の電話をかけてきたらしい。
それで、加平の直属の上司である紙地一主任に、監督課長からお叱りの電話がかかってきたのだ。
(まあ、苦情を言われても仕方ないぐらい、加平さんのやり方が強引で常識外れであったことは、否めないな)
アトラス市場に青池を訪ねて行った日――加平は青池に2つの協力を依頼した。
1つ目は、押元所長を説得して、出店先とFortuneFieldsの間の契約書を入手すること。
青池の話から、出店先との契約上、17時以降も屋台を開けざるを得ない状況であることがわかったわけだが、あの福田社長を黙らせるには証拠を突きつける必要がある。
青池が押元所長を説得したところ、雇用契約と業務委託契約の二重契約について、かねてから実態にそぐわない内容だと感じていたらしい押元所長は、決意を固めて協力してくれた。
『石山さんが亡くなったことについては、私も責任を感じていたんです……。古参の石山さんに、私は頼り過ぎていた。それが石山さんの心身の重い負担になったと思うと、私は……』
そう言った押元所長は、涙ぐんでいた。
押元所長経由で入手した出店先とFortuneFieldsの契約書によって、17時以降の屋台の営業は従業員の自由意志で決められるものではなく、仮に17時で屋台を閉めれば出店先との契約不履行になることが明らかになった。
紙地一主任に報告の上、加平と時野はFortuneFieldsの案件を再度署内会議にかけ、法律違反として是正勧告書を交付するという方向で、署長たちを説得した。
(出店先との契約書という書面の証拠が手に入ったから、署長たちも渋々了承してくれたけど)
だが加平は、是正勧告書の交付だけでは足りないと考えたようだ。
2つめの青池への依頼は、労働組合を組織すること。
青池は、忙しい業務の合間を縫って全営業所の同僚らに話をつけ、労働者の過半数が加盟する労働組合を立ち上げた。
(労働組合としてはまだ不完全なところもあるけど、これまで沈黙していた労働者が立ち上がったということが、福田社長にとって大きな抑止力となるだろう)
さらに加平は、各出店先との契約変更――屋台の時間を短くするというもの――を申し出るよう、押元所長に教示した。
『契約変更に至れば一番いいですが、今はそうならなくても構いません。要は、トラブルを起こして、福田にダメージを与えられればいいです』
(ここまでくると、ちょっとやり過ぎのような気もしたけど……結果的に福田社長を多方面から追い込むことができた。だけど、半ばそそのかすように青池さんと押元所長に提案した後の加平さんは……)
『福田みたいな輩は、徹底的に攻撃してメンタルの砦を崩さねーとな』
そう言った時の加平のガラの悪い表情を思い出して、時野は身震いした。
(加平さんが味方でよかった!)
「加平あー! まったくもおー! マジで俺を禿げさせる気だな?」
紙地一主任は、加平にガシっと肩を組んでもたれかかった。
「すみませんって……一主任」
さすがの加平も、居心地が悪そうにしている。
「まあ、FortuneFieldsの社長の苦情は角宇乃署のやり方に対するもので、是正勧告書に対するものではなかったそうだから、法律違反の指摘については一応納得してもらえたみたいだな」
FortuneFieldsに是正勧告書を交付して一週間ほど経過していた。
実は、昨日押元所長から時野たちに連絡があり、社会保険労務士と契約をして、労働時間や賃金の支払いの在り方について改善に取り組むことになったとの報告を受けていた。
『さすがの社長も、この実態で業務委託契約として続けることは難しいと観念したようです。社労士さんに入ってもらって、労働基準法を遵守するよう働き方を変えていくことになりました!』
加えて、押元所長や青池についてもお咎めなしだったということに、時野は胸をなでおろした。
『青池くんは、もはやうちのエースですからね。簡単にクビにするなんてできません。それに、ただでさえ人手不足ですから。私についても、いなくなると業務が回らないと社長は判断したのだと思います』
初めて角宇乃営業所を臨検した時と違って、押元所長の声は明るかった。
(この調子なら、今いる従業員たちの働き方は改善されるだろう。それと……)
「加平ー! いらっしゃったわよ」
声をかけてきたのは、労災課の若月だ。
若月のいる労災課のカウンターに近づくと、花音と麗花が座っているのが見えた。
花音は立ち上がって、時野と加平に頭を下げた。
「青池さんから全部聞きました。なんとお礼を言っていいか……」
「それで今日は、正式に遺族補償の請求書を提出されるそうよ」
若月がそう言って、接客カウンターの上にある労災保険の請求書を指さした。
「正式な認定調査はもちろんすることになるけど、加平の言っていた労働時間数なら、まず認定になるでしょうね」
加平の肩に手を置きながら、ひそひそ声で若月は加平に言った。
17時までしか石山健三の労働時間が認められないとなると、労災の認定基準には到底届かないので心配だったのだが、今回の是正勧告で17時以降も労働時間と特定したので、認定基準を優に超えることになるだろう。
(よかった。労災認定になれば、花音さんが遺族給付を受けることができる。お父さんを失った悲しみは消えることはないけど、花音さんの今後の生活はひとまず保障される)
時野は、請求書に記入している花音のことを、ホッとしながら見ていたのだが――。
(ん? どこかから殺気を感じるような……はッ!)
花音の横にいる麗花が、加平にしなだれかかる若月を凝視している。
「!」
加平も気がついたようだ。慌てて若月から離れるが、後の祭りだ。
「れい……」
「花音ちゃん! 私、車で待ってるね」
「えっ? あ、はい」
麗花はずかずかと大股で歩いて事務室を出て行ってしまった。
「麗花! 待てって! いてっ!」
急いで追いかけようとして、加平は長い脚をどこかにぶつけたようだ。痛みで顔をしかめながら、麗花を追って事務室を出て行った。
(冷徹王子も、麗花さんに振られたら形無しだな)
珍しく情けない様子の加平を見て、なんだか笑ってしまった時野なのであった。
ー第4話に続くー
リンク
次の話を読む
前の話を読む
全話一覧へ
season1を読む
電子書籍版(season1)
season1を電子書籍化!
本編は本サイトに公開中ものと同じですが
🟡電子書籍版も読んでみる
🟡書き下ろし番外編を読む
🟡労働Gメンの小説を応援する
という方はぜひご購入お願いします!
電子書籍版の特典 第3話に登場した若月優香を主人公に労災年金にまつわるドラマを描く番外編を収録
AD Amazon・アソシエイトプログラムの参加者です。リンクからの購入・申込でとにーに収益が入る場合がございます。収益は活動費に充てます。いつもありがとうございます!
note版
noteでも本作を公開しています!(*内容はこちらに掲載しているものと同じです。)


こちらもおススメ!