第2話〈中編〉を12/13(金)に公開しました!
登場人物
時野 龍牙 ときの りゅうが 23歳
新人の労働基準監督官。K労働局角宇乃労働基準監督署第一方面所属。監督官試験をトップの成績で合格。老若男女、誰とでも話すのが得意。
高光 漣 たかみつ れん 45歳
22年目の労働基準監督官。安全衛生課長。おしゃべり好き。意外と常識人。美人の先輩を追いかけて監督官に。妻は関西出身。
伍堂 快人 ごどう かいと 25歳
新人の労働基準監督官。S労働局所属。時野の同期。「初めて会った気がしない!」という口説き文句が口癖で惚れっぽい性格。
本編:第2話「消えた女」
〈前編〉
§1
『あ、そーだ』
伍堂が振り向いた。くっきりとした綺麗な二重まぶたの下には、意外と無垢そうな瞳が収まっている。
その瞳が、チカッと光ったように見えた。
『俺、お前の秘密、知ってるよ!』
(は……?)
『だから……これからもよろしくな』
伍堂の瞳が異様に大きくなって、オバケのように時 野に覆いかぶさった。
『時野……』
(やめろ!)
手を振り回すが、周りには真っ黒な空間が広がっているだけで、何もつかめない。
(やめろ……)
「伍堂!」
時野は大声で呼んだが、そこに伍堂はいなかった。
「えぇっ! びっくりしたー」
後部座席から、高光課長が声を上げた。
「ゴドー? もしかして一期堂って言った? あ、わかった! 災調の後一期堂のラーメン行きたいんだね、もちろんオッケー。多分昼までかかるだろうしね」
(ヤバい、寝てたんだ、僕)
「えーっと、そうです、一期堂!」
(前期研修から帰ってきてからというもの、伍堂のことが気になってよく眠れないんだよな)
前期研修の最終日。縦浜駅の改札前で別れた時の伍堂は、意味深な言葉を投げかけると、硬直する時野を尻目に笑顔で手を振って改札に入っていった。
(伍堂、アイツ……。ほんと、どういう意味なんだろう? 僕の秘密ってなんだよ? もしかして……いやいや、それはない)
そんな風に考え始めると夜もなかなか寝付けず、官用車の心地よい揺れを受けて思わず居眠りをしてしまったのだ。
時野は、安全衛生課の高光課長と永渡と共に、官用車で災害調査に向かっていた。
災害調査とは、労働災害が発生した現場で写真撮影や計測を行い、災害が発生した状況の詳細を調査することだ。
全ての労働災害で災害調査を行うわけではなく、死亡災害や重大災害、特定の機械の災害など、再発防止の必要性が高い災害について実施することになっている。
事業場からの一報のほか、警察や消防から連絡をもらうこともあれば、新聞やテレビで報道されて災害の発生を把握することもある。
今回の場合は、警察から角宇乃労働基準監督署に問い合わせが入ったことが発覚の端緒だ。
今朝8時頃、工場内でタンクが爆発し、火災が発生して負傷者が出たのだという。
10時から警察が実況見分をするというので、角宇乃労働基準監督署も一緒に調査をすることになったのだ。
「時野くん、災害調査ってのは、誰かが怪我をした現場に行くってことだからね。談笑なんかはご法度! いいか、決して歯を見せるなよ?」
永渡に注意をされて、時野は気を引き締めた。
「は、はい! 気をつけます」
「おっ、いいね! 『絶対に笑ってはいけない災害調査』! それなら私が刺客となろう!」
「ちょ、やめてください! 高光課長」
面白いことが好きな上司ということが十分わかっているので、永渡も苦笑している。
(高光課長が刺客になったら、絶対に笑かされる!)
§2
永渡が運転する官用車が工場の敷地内に入ると、事業場の担当者が小走りで駆け寄ってくるのが見えた。
聞けば、警察はすでに到着して現場の確認を始めていると言う。
「えっ、まだ10時になってないじゃん! 警察さんてばフライングー!」
高光課長はブーブー言ったが、警察の責任者と顔を合わすやキリッと顔面を整えて名刺交換を始めた。
現場は工場の一角の作業場だ。
30畳ほどの広さがあるが、壁にある大きなシャッターが屋外に向かって全開になっているので、ほとんど外と変わらない。
警察官が10人ほどウロウロしている中に、時野は知っている顔を見つけた。
「あ! 李崎さん!」
「お前は……龍牙くんじゃないか!」
李崎は、時野のところにやってくると、時野の肩をバンバンと叩いた。
「あの、名前で呼ぶのやめてください。名前負けしてて、聞いた人をガッカリさせるんで」
「いいじゃん、龍牙って、せっかくカッコいい名前なんだからさ」
李崎は、以前、労働相談に関係する事故車両を角宇乃警察署に確認しに行った時に、お世話になった警察官だ。(season1・第5話「道交法違反」)
「李崎さんも、実況見分に来てたんですね」
「そう。警察は10人で来たんだけどよ。まあ出張るほどの事故ではなかったな」
李崎が示した方を見てみると、作業場の中央に大きなドラム缶が転がっていた。
ドラム缶の中央にひび割れが入り、錆びているのか焼け焦げたからなのか、全体的に赤茶けた色をしている。
「あのドラム缶を被災者がガス溶断しようとしたら、穴が開いた瞬間ドカン! だとよ」
廃棄するために切断して小さくしようとしたところ、ドラム缶の中に残っていた可燃性の液体が揮発し、ガスに触れて炎が上がったらしい。
「火が上がったって言っても一瞬で、ガス溶断の機械を持っていた労働者が手を火傷した程度で済んだそうだ。バッと火が上がったのを、目撃者が爆発したと勘違いしたみたいだな」
被災者はすぐに救急搬送されたが右手の火傷のみで、幸いにも軽傷。
「よかったです。大怪我じゃなくて」
「ま、そうなんだけどよ。最初の通報が『タンクが爆発した』『火が燃え上がって負傷者が出た』でさ。そういうことなら業過もあり得るってことでこうして来てみたけど、そこまでの事案じゃなかったな」
『業過』とは、業務上過失致死傷のことだ。
事業場で災害が起こった場合、労働基準監督署が所掌する労働安全衛生法の違反により送検することもあるし、同時に業務上過失致死傷により警察が送検することもある。
「というわけで、うちらはもう引き上げるよ」
じゃあな、と李崎は手を上げて、同僚たちと一緒に引き上げていった。
労働者が負傷した以上は労働災害なので、時野たち監督署メンバーは災害調査を行うことにした。
高光課長が、災調グッズが入った鞄から『1』『2』の札を取り出すと、転がったドラム缶の両端に置いた。
「うーんと、起点は……そっちの柱でいっかな?」
「ですね」
高光課長の提案に頷き、永渡が作業場の四隅にある柱のうちの2本に『A』『B』の札を置く。
事業場の担当者に災害発生時の被災者が倒れていた位置を確認しながら、その頭部があったらしい場所に『〇』、つま先があったらしい場所に『×』の札を高光課長が置いた。
「時野くん。災害調査の時は、こうやって大事な箇所に札を置いてね。計測で位置関係を特定したり、災害に関係するブツの計測や写真撮影をしたりするよ。ブツってのは、今回で言えばドラム缶なんかだね」
「はい」
「それから、災害が起こった位置を特定するために、動きようのない所を『起点』にして、そこからの距離も計測する。建物内だと柱にすることが多いよ。外だったら、電柱とか建物の角とかね」
「なるほどですね……今回だと、『A』と『B』の柱ということですね」
「そう。今回は工場内だから簡単だけど、これが屋外のなーんもないところで災害が起こっちゃうと、『起点を探して三千里』って感じでめちゃくちゃ大変なのよー。前に俺が行った現場なんてさあ……」
「課長、そろそろ計測を……」
お話し好きの高光課長の話が長くなってきたので、さりげなく永渡が制止した。
「あー、そうだね。俺の武勇伝は帰りの車で話すとして……」
高光課長は、画板に紙を敷いて時野に渡した。
「時野くんに、計測結果を記録してもらおうかな。まずね、計測を始める前に簡単な位置関係を図にしておくといいよ。そうすれば、言われた数字を書き込んでいくだけになるからね」
「わかりました!」
時野はささっと位置関係をスケッチした。
「じゃあ、まず1-A間~」
高光課長が言うと、永渡がスッとメジャーを伸ばした。
「1-A間……3メートル90!」
高光課長がメジャーのゼロ側を持って押さえ、数字を読み取った永渡が大きな声で数字を叫んだ。
(3メートル90センチっと)
時野は図面に数字を書き込んだ。
「時野くん、計測の数字が聞こえたら、同じ数字を言い返して。正しく聞き取っているかの確認ね」
「あ、はい! すみません。3メートル90!」
「そーそー、オーケーオーケー」
時野たちは順次計測を済ませると、高光課長は事業場の担当者に被災状況の詳しい聴取を始め、永渡は現場の写真を撮影し始めた。
「ブツの写真や、現場全体の写真はもちろんだけど、被災者が身に着けていた作業着や安全帯、ヘルメットが現場に残っている場合はそれらも撮るよ」
「はい」
永渡は、一眼レフのカメラを両手で構えると、慣れた手つきで撮影した。
「それから、帰りに工場の全景も撮るんだけど、よく忘れるんだよねー。これを忘れると後日隠し撮りしに来るはめになるから、要注意!」
一通り調査を終えた3人は、官用車に乗り込んで事業場を後にした。
「時野くんも一緒だったから研修目的もあってがっつり災調したけど、被災者も軽傷だし、爆発ってことでもなかったし、災時監扱いでいっかな?」
『災時監』とは、災害時監督のことだ。災害調査する程の規模ではない災害でも、再発防止の必要性や法違反の可能性から判断して、監督の一環として現場を確認しに行くことがある。
「じゃ、無事に災害調査も終わったことだし、一期堂行こうぜー!」
いつの間にか、時刻は正午を過ぎていた。
(『伍堂』を『一期堂』に誤解されちゃったけど、ラーメン食べたい気分だから結果オーライだ)
二郎系の方にしようかつけ麺の方にしようかと時野が考えていると、時野の胸ポケットでスマートフォンが振動した。
スマートフォンのロックを解除すると、LINEのメッセージが届いていた。
『時野、おつかれ! 週末、そっちに遊びに行くからよろしく』
(!)
メッセージは、伍堂からだ。
さらにスマートフォンが振動し、続きのメッセージを受信した。
『時野に折り入って頼みたいことがあるんだ』
(頼みたいこと……だって?)
こみ上げてくる嫌な予感で、時野の食欲はみるみる減退していったのだった……。
§3
「おーい、時野ぉー!」
角宇乃駅の改札の向こうから、伍堂が満面の笑みで手を振っている。
「……」
「お迎えご苦労! なんだよー、そのイヤそうな顔~! 同期との再会をもっと喜べよ」
伍堂は時野に肩を組んできた。
「ていうかさ……。本当に、うちに泊まる気?」
「もちろん!」
時野は大きくため息をついた。
土曜日の午後。予告通り、伍堂は角宇乃市にやってきた。
(なんか、家に連れて行くのやだなー。それに……)
『折り入って頼みたいことがあるんだ』
(これが『これからもよろしくな』の一環だとしたら……)
今後も、面倒なことを色々押し付けられるのでは――?
「どうしたんだよ? 早く時野んち行こーぜ」
時野の気持ちとは裏腹に、伍堂は楽しそうに促す。
仕方なく自宅に案内すると、伍堂は玄関で靴をきちんと揃え、行儀よく中に入った。
「ここは……一人暮らしじゃないよな?」
新監の給料は安いので、一人暮らしの場合は宿舎――国家公務員の社宅・寮――に入るか、民間の安いワンルームを借りる場合が多いだろう。
だが時野の自宅は、世帯向けのマンションだ。
「まさか、彼女と同棲?」
柔らかい雰囲気のインテリアや、室内に置いてある私物は、女性の住人の存在を匂わせる。
「母親と住んでる」
時野がぶっきらぼうに答えたので、伍堂はがっかりした様子だ。
「なんだよ、大スクープかと思ったのに」
(彼女と同棲してたらお前を泊まらせるわけないだろー!)
「じゃあご挨拶しないと。お母さんはどちらに?」
「仕事。今日は遅いと思うから、ご挨拶は明日でいーよ」
「そっか、わかった。そうだ、これS県の銘菓。お母さんと食べてよ」
伍堂が渡してきた紙袋のロゴは、時野も何度か見たことのある有名な菓子店のものだ。S県のお土産と言えば、半数はこの菓子ではなかろうか。
「……で? 僕に頼みたいことってなんだよ」
「まあそう焦るなって。おっ、もう4時か。晩飯どーする?」
時野はため息をつくと、テーブルの上のチラシを指さした。
「ピザでもとる? この辺は店が多いから、外に食べに行ってもいいけど」
「んー、そうだな。じゃあピザにしようぜ。あと、買い出し行ってアルコールとつまみも調達しよ」
伍堂は楽しそうだ。
「ゆっくり話したいし、家飲みがいい」
(ゆっくり……。一体僕に何をやらせるつもりなんだよ)
*
「でさあー、乃愛ちゃんとは週に一度はLINEのやりとりしてて、時にはビデオ通話したりもしてさ」
3本目のビールを飲んでいる伍堂は、上機嫌だ。
「これっていい感じだと思わないか? どう思う、時野」
「んーどうかなー。上城さんはそんな単純じゃないと僕は思うけど。連絡を取ってるのが伍堂だけとは限らないんじゃないか」
「えぇー! マジかよ! 乃愛ちゃんもまんざらでもなさそうなんだけどなーあ」
時野は1本目のビールを飲み終わると、2本目に低アルコールのカクテルを選んだ。
「そう言う時野はどうなんだよ? 誰か同期の女子とやり取りしてないわけ?」
口をつけたカクテルの缶をテーブルに置くと、時野は切り出した。
「……そういうのはいいから、そろそろ本題を話せよ」
「本題? ああ、なんだっけ?」
(コイツ……締めたろか)
時野がムキッと睨んだのをみて、伍堂がくすくすと笑う。
「冗談だって! そうだな。よし、聞いてくれ」
時野は椅子に座り直した。
「実は、時野に頼みたいことと、言うのはだな」
「うん」
「俺が一目惚れしたK局の女性監督官を、探してほしいんだ」
「はあぁ??」
〈中編〉
§1
K県の縦浜市は国内有数の大都市であり、ビジネスでも観光でも訪問者の数はトップクラスだ。
伍堂はS県で生まれ育ったが、大学は縦浜市にある国立大学に進学した。
伍堂の両親は公務員ではないが、親族にはなぜか公務員が多く、集まりのたびに『安定』した人生を見せつけられた影響なのか、両親は公務員を目指すよう息子に求めた。
(まあ、色々心配をかけてきた俺を、両親は大切に育ててくれた。格別やりたいこともないし、職業は親の言う通り公務員でいい)
それでも、ギリギリまで粘りたい伍堂は大学院に進学し、さらに2年の学生生活を謳歌してから公務員試験に臨んだ。
受験できる公務員試験を片っ端から受験すると、ほとんどの試験は筆記で落ちてしまったものの、労働基準監督官と地元のS県警に最終合格することができた。
(さて、どちらに就職するか……)
労働基準監督官となる場合は、希望する都道府県の労働局――第1希望から第3希望までの3局――の採用面接を受けに行くことになる。
(警察の仕事はイメージしやすいけど、労働基準監督官ってどんな仕事なんだろう)
伍堂は思い切って、K労働局の採用担当者に連絡を取り、職場見学のお願いをした。
(K労働局は第二希望だけど、今の自宅から一番近いしな)
職場見学当日――伍堂が縦浜南労働基準監督署を訪問すると、他の見学希望者2名と共に、副署長が署内を案内してくれた。
各部署の様子を一通り見学しながら業務説明を受けた後、伍堂たちは会議室に案内された。
「先輩の労働基準監督官を呼んでいるので、どうぞ何でも質問してください」
副署長がそう言うと、先輩監督官の男性は苦笑しながら自己紹介した。
「ご紹介にあずかりました、労働基準監督官の阿部です。何質問されるのか怖いけど、可能な限り答えます」
阿部は30代前半の中堅の労働基準監督官のようだ。
背広のボタンを外して前を開き、センスのいいワイシャツに上手に結ばれたネクタイはほんのり襟元が緩められ、こなれた社会人感が漂っている。
(おーカッコイイ先輩だ。俺も将来的にはこうやって入省希望者の質問に答えるのも悪くない)
『そうだね、時には大変なこともあるけど、ワンチームで取り組んでいるよ』
妄想の中で、伍堂は若い女性見学者の質問に回答した。
『伍堂先輩って、ステキですね』
『彼女さんはいるんですか?』
(いやー。モテモテで困るな~)
伍堂が一人ニヤつきながら妄想に浸っている間に、他の受験生が次々に阿部に質問をした。
(お、他の受験生たちの質問、めっちゃまじめじゃん)
「はい!」
伍堂は阿部に向かって手を上げた。
「そちらの彼、どうぞ」
「職場恋愛はオーケーですか?」
伍堂の質問に、副署長も受験生たちもキョトンとしている。
「ははは、そうだね、禁止はされてないよ。実際、職場結婚も多いしね」
阿部だけは、苦笑しながらも伍堂の質問を受け止めてくれた。
(そんな変な質問だったかな? 恋愛欲は人間の三大欲求の一つなんだから、長い時間滞在する職場内での恋愛が可能かどうかは重大問題だと思うんだけど)
伍堂が首をかしげていると、受験生の女性が深刻そうな面持ちで阿部に質問した。
「女性の働きやすさについて質問なのですが……。処遇面については問題なくとも、感覚として、男性が多めの職場ですと女性監督官の働きにくさのようなものはないのでしょうか」
徐々に女性の労働基準監督官も増えてきたようだが、全体では2、3割というところらしい。
さすがにこの質問は、これまでなめらかに回答してきた阿部でも答えるのが難しいようだ。
「君の質問には女性監督官が答えるのが一番だけど……」
阿部は副署長と目を合わせるが、その副署長も男性なので、肩をすくめている。
その時、阿部が指をパチンと鳴らした。
「そうだ! ちょっと待ってて。女性監督官を連れてきます」
「え、でもうちの署には……」
副署長はそう言ったが、阿部は目配せをして会議室を出て行った。
阿部が出て行ってから、5分程経過しただろうか。女性を伴って戻ってきた。
「連れてきました、女性監督官!」
阿部に背中を押されながら受験生たちの前に立たされた時、女性のワンピースの裾がふわりと揺れた。
ワンピースの共布のベルトをウエストでリボン結びし、アンクルストラップのハイヒールを履いたその女性は、スタイルの良さが強調されながらも清楚ないで立ちだ。
ボストン型の眼鏡の奥には真面目そうな黒い瞳が見え、卵型の女性らしい輪郭の周りに、ベージュ系でナチュラルに染められた髪が鎖骨辺りまで伸びている。
(か、かわいい)
万人受けするタイプではないが、伍堂の好みのタイプであった。
阿部が、質問者の方を見ながら女性監督官に何かささやいた。
女性監督官は頷くと、質問者の方を向いて話し始めた。
「確かに男性が多い職場ですけれど、女性だからと言って働きにくさを感じたことはありません。労働基準監督官は『個』が際立った人が多いですが、男性とか女性とかいう区別でものを考える人は少ないように思います」
女性は少し首を傾けた。
「ただ……外部の方、つまり事業場の方や労働者の方は、色々な方がいらっしゃいます。中には、『女じゃダメだ』といったことをおっしゃる方も」
背筋を伸ばした立ち姿のまま、女性監督官はさらに回答を続けた。
「そんな時私は、なるべくチームで対応するようにしています。女性かどうかだけではなく、正直言って色々な意味で矢面に立たされる局面があります。でも、決して一人で戦う必要はありません」
女性監督官はそう締めくくると、質問者に対して微笑んだ。
伍堂はその言動の一部始終を舐めるように見ていたが――。
(……いい!)
見た目がストライクなのはもちろんだが、対応の悪い輩がいるという不都合なことも説明しつつ、質問者に誠実に答える姿を見て、伍堂の心はすっかりその女性監督官の虜になったのだった……。
§2
「……って、いやいやいやいや!」
「なんだよ。『いや』が多いな」
伍堂は5本目の缶ビールを飲み干すと、ハイボールの缶のプルトップをプシっと引っ張った。
「だって伍堂! さっきまで、上城さんとイイ感じがどうとか言ってたよな?」
「そうだけど?」
伍堂はつまみに買ってきたチータラを口に詰め込むと、ハイボールをぐびぐびと飲んだ。
「そうだけどじゃないよ、上城さんのことはどうするんだよ! お前の言う通り『イイ感じ』になっておきながら、その女性監督官と二股かけるつもりかよ」
時野はつい語尾が強めになってしまったが、伍堂はあまり気にしていないようだ。
「俺はもちろん乃愛ちゃんが好き。だけど、一目惚れした彼女のことも忘れられないの」
「はぁ?」
「お前だって、同時に2人の女の子を気になっちゃうみたいなことあるだろ?」
「いや、僕にはそんな器用なことできないけど」
時野としては皮肉を込めて言ったつもりだったが、伍堂はヘラっと笑いながらこう答えた。
「そーそー、俺って器用なんだよね」
(褒めてない!)
時野は、伍堂に見せつけるように大きなため息をついた。
(そう言えばコイツ……『並行して複数人愛せる』とか平気で言っちゃう変態だったっけ)
「誤解するなよ? もちろん、正式に交際が始まったら、その交際相手一筋だよ? その辺は俺、一途だから」
(どーだか……)
時野は半眼で伍堂を睨んだ。
「質問に答えたら彼女はサッと会議室から出て行ってしまったんだ。監督官になれたらあんな素敵な女性と一緒に働けるのかと思って夢見心地で家に着いたら、名前すら聞いていないことに気がついたんだけど、後の祭りで……」
伍堂は、時野の手を握りしめた。
「!」
「だから、頼むよ時野! K局のどこかにいるはずなんだ。彼女を探し出して俺に会わせてくれ!」
「おい、離せよ」
時野は手を離そうとしたが、伍堂はより一層力を込めた。
「頼むよ! 俺たちは盟友だろ?」
(先月知り合ったばっかりだし!)
「なあ、時野!」
伍堂は時野の手を手繰りよせながら、どんどん時野に近づいてきた。
(いや怖いって!)
「わ、わかった! わかったから、もう離せって」
伍堂が、パッと時野の手を離した。
「ありがとう、時野!」
時野は伍堂に握られた手をぶんぶん振って、痛みを逃した。
「だけど……新監の僕にはあまり労働局にツテはないし、見つかる保証はないからな」
「おう! 仕方ないこともあるってことは、俺もわかってるさ」
伍堂は、うれしそうにハイボールの缶をもつと、口をつける前に思い出したようにこう言った。
「心配しなくても、俺の思い人が見つからなかったからって、時野の秘密をバラしたりしないから」
「!」
(コイツ……。ちょいちょい脅すようなこと言って、何が盟友だよっ!)
§3
(それにしても……どうやって、伍堂の意中の女性監督官を探すかな)
土曜の夜は、あのまま遅くまで飲んだ。
日曜日は昼頃まで時野の部屋で寝ると、時野の母が用意した昼食を大げさに褒めながら完食し、伍堂はS県へと帰っていった。
『じゃあ頼んだぜ、盟友!』
(だから出会って1か月だってば)
時野が頭をかきながら角宇乃労働基準監督署に出勤すると、後ろから誰かが肩をたたいた。
「おはよう、時野くん」
声の主は、紙地一主任。時野の直属の上司だ。
「一主任、おはようございます」
「あれ? なんだか疲れてる?」
「あー、いえ……疲れてると言うか、困ってると言うか」
「ん? どうしたの?」
「……はい、実は人探しをすることになって」
「人探し?」
時野は事務室に向かう道すがら、紙地一主任に事情を説明した。
ただ、探す理由についてはさすがに「一目惚れ」とは言いにくく、「お世話になったお礼を言いたい」ということにした。
「去年縦浜南署にいた『阿部』って言ったら、どっちだろうなあー」
紙地一主任は顎に手を当てて考えている。
「K局には『阿部』監督官が2人いらっしゃるんですか?」
「正確には3人いるよ。ただし、そのうち2人は夫婦。で、残りの1人は男だから、男性監督官の『阿部』といったらそのどっちかだね」
「そうか、職場結婚もわりといらっしゃるんでしたよね」
「うん。結婚後も業務上は旧姓を名乗ってもいいんだけど、業務以外の書類関係――例えば保険証とか年末調整とかは戸籍上の氏名じゃないといけないから、印鑑を2種類用意したり、場合によって姓を書き分けたりするのが面倒みたいで、キリのいいタイミングで戸籍上の姓に切り替える人も結構いるよ」
「なるほどー」
紙地一主任と話しているうちに自席に到着し、時野は背負っていたリュックを下ろして業務用パソコンの電源を入れた。
「まあ、阿部監督官の特定は難しくないだろうけど、問題は捜索対象の女性監督官だな」
紙地一主任は、時野と話しながら、起動したパソコンにパスワードを入力している。
「と、おっしゃいますと?」
「だって、昨年度は確か、縦浜南署に女性の監督官の配置はなかったから」
「えっ?」
「筆頭署だからあれだけ席数が多いのに女性が一人もいなくて、『むさくるしい』とか『人事の嫌がらせだ』とか、縦浜署のメンツが相当騒いでいたからな」
当時の愚痴る同僚の様子を思い出したのか、紙地一主任は苦笑している。
「それにしてもなー。事前に予定されていない質問だったのに、一体どこから女性監督官を連れてきたのか、不思議な話だね」
(女性監督官がいない……? 老若男女問わず惚れっぽい伍堂のことだ。本当に、『女性』監督官だったのだろうか。怪しい。……っていうか、そこからかよっ)
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